・・・僕は彼女の横顔を見ながら、いつか日かげの土に育った、小さい球根を考えたりしていた。「おい、君の隣に坐っているのはね、――」 譚は老酒に赤らんだ顔に人懐こい微笑を浮かべたまま、蝦を盛り上げた皿越しに突然僕へ声をかけた。「それは含芳・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・「こんなに好いちんぼ芽じゃ球根はうんと大きかろうねえ。――え、良ちゃん掘って見ようか?」 彼はもうそう云った時には、畦の土に指を突こんでいた。良平のびっくりした事はさっきより烈しいくらいだった。彼は百合の芽も忘れたように、いきなりそ・・・ 芥川竜之介 「百合」
・・・紙箱の中には、すでに芽を出しかけた、いくつかのすいせんの球根がはいっていました。また、古びた貯金帳といっしょに、なにか書いたものがほかから出てきました。それを見ると、「私は、親もなければ、兄弟もない一人ぽっちで暮らしてきた。私の一生は、・・・ 小川未明 「三月の空の下」
・・・それを手にして堤下を少しうろついていたが、何か掘っていると思うと、たちまちにして春の日に光る白い小さい球根を五つ六つ懐から出した半紙の上に載せて戻って来た。ヤア、と云って皆は挨拶した。 鼠股引氏は早速にその球を受取って、懐紙で土を拭って・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・たのであるが、それから、ひとつき経って十月のはじめ、私は、そのときの贋百姓の有様を小説に書いて、文章に手を入れていたら、ひょっこり庭へ、ごめん下さいまし、私は、このさきの温室から来ましたが、何か草花の球根でも、と言い、四十くらいの男が、おど・・・ 太宰治 「市井喧争」
・・・二十種にちかき草花の球根が、けさ、私の寝ている間に植えられ、しかも、その扇型の花壇には、草花の名まえを書いたボオル紙の白い札がまぶしいくらいに林立しているのである。「ドイツ鈴蘭。」「イチハツ。」「クライミングローズフワバー。」「君子蘭。・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・袋の口をあけてのぞいて見ると実際それくらいの大きさの何かの球根らしいものがいっぱいはいっている。一握り取り出して包み紙の上に並べて点検しながらも、これはなんだろうと考えていた。 里芋の子のような肌合をしていたが、形はそれよりはもっと細長・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・つい先日バラの苗やカンナの球根を注文するために目録を調べたときに所在をたしかめておいた某農園がここだと分かった。つまらない「発見」であるが、文字だけで得た知識に相当する実物にめぐり合うことの喜びは、大小の差はあっても質は同じようなものらしい・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・いろいろの球根などは取るのにも取りやすいわけだが、小さな芽ばえでもたんねんに抜いてそこらに捨ててある。どうかすると細かく密生した苗床を草履か何かですりつぶしたりする。すっかり失敗した翌年は特別な花壇を作る代わりにところどころ雑草の間の気のつ・・・ 寺田寅彦 「路傍の草」
・・・今日実習が済んでから農舎の前に立ってグラジオラスの球根の旱してあるのを見ていたら武田先生も鶏小屋の消毒だか済んで硫黄華をずぼんへいっぱいつけて来られた。そしてやっぱり球根を見ていられたがそこから大きなのを三つばかり取って僕に呉れた。・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
出典:青空文庫