・・・中流より石級の方を望めば理髪所の燈火赤く四囲の闇を隈どり、そが前を少女の群れゆきつ返りつして守唄の節合わするが聞こゆ。』 その次が十一月二十六日の記、『午後土河内村を訪う。堅田隧道の前を左に小径をきり坂を越ゆれば一軒の農家、山の麓に・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・ 日が暮れるとすぐ寝てしまう家があるかと思うと夜の二時ごろまで店の障子に火影を映している家がある。理髪所の裏が百姓家で、牛のうなる声が往来まで聞こえる、酒屋の隣家が納豆売の老爺の住家で、毎朝早く納豆納豆と嗄声で呼んで都のほうへ向かって出・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・かた広く、欄の高さは腰かくるにも足らず、これを渡りてまた林の間を行けばたちまち町の中ほどに出ず、こは都にて開かるる洋画展覧会などの出品の中にてよく見受くる田舎町の一つなれば、茅屋と瓦屋と打ち雑りたる、理髪所の隣に万屋あり、万屋の隣に農家あり・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ 次の日は「理髪」だった。――俺はこうして、此処へ来てから一つ一つ人並みになって行った。――こゝの床屋さんは赤い着物を着ている。 顔のちっとも写らない壊れた小さい鏡の置いてある窓際に坐ると、それでも首にハンカチをまいて、白いエプロン・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ 或とき彼は、自分の顔を剃る理髪人が、「おれはあの暴君の喉へ毎朝髪剃りをあてるのだぞ。」と言って、人に威張ったという話をきき、すっかり気味をわるくしてその理髪人を死刑にしてしまいました。そして、それからというものは、もう理髪人をかか・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・が何ゆえに理髪師であるか不思議である。「髪結床」から来たかと思われる。その「床」がわからない。 マレイ語で頭髪を剃るのは chukor であり女の髪を剃るのが tokong である。また蘭領インドでは「店」が toko である。 マ・・・ 寺田寅彦 「言葉の不思議」
・・・ 八 鏡の中の俳優I氏 某百貨店の理髪部へはいって、立ち並ぶ鏡の前の回転椅子に収まった。鏡に写った自分のすぐ隣の椅子に、半白で痩躯の老人が収まっている。よく見ると、歌舞伎俳優で有名なIR氏である。鏡の中のI氏は、実物・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・ 無数の葉の一つ一つがきわめて迅速に相次いで切断されるために生ずる特殊な音はいろいろの事を思い出させた。理髪師の鋏が濃密な髪の一束一束を切って行く音にいつも一種の快感を味わっていた私は、今自分で理髪師の立場からまた少しちがった感覚を味わ・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・ 食堂や写真部はもちろん、理髪店、ツーリスト・ビュロー、何でもある。近頃郵便局の出来たところもある。職業紹介所と結婚媒介所はいまだないようであるが、そのうちに出来てもよさそうなものである。今でも見合いのランデヴーには毎日のように利用され・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・よく見る町の理髪師が水鉢に金魚を飼ったり、提燈屋が箱庭をつくって店先へ飾ったりするような趣味を、この爺さんも持っていたらしい。爺さんはその言葉遣いや様子合から下町に生れ育ったことを知らしていた。それにしても、わたくしは一度もこの爺さんの笑っ・・・ 永井荷風 「草紅葉」
出典:青空文庫