・・・欧化気分がマダ残っていたとはいえ、沼南がこの極彩色の夫人と衆人環視の中でさえも綢繆纏綿するのを苦笑して窃かに沼南の名誉のため危むものもあった。果然、沼南が外遊の途に上ってマダ半年と経たない中に余り面白くない噂がポツポツ聞えて来た。アアいう人・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ひき上げられて衆人環視の中で裸にされたので、実に困りました。ちょうど古着屋のまえでしたので、その店の古着を早速着せられました。女の子の浴衣でした。帯も、緑色の兵古帯でした。ひどく恥かしく思いました。叔母が顔色を変えて走って来ました。 私・・・ 太宰治 「五所川原」
・・・たとえ公然と表立ってそれを指摘し攻撃する人がないとしても、それを審査し及第させた学者達は学界の環視の中に学者としての信用を失墜してしまわねばならないし、その学者の属する学団全体の信用をも害しない訳には行かない。従って審査委員自身は平気で涼し・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・このようにして、白昼帝都のまん中で衆人環視の中に行なわれた殺人事件は不思議にも司直の追求を受けずまた市人の何人もこれをとがむることなしにそのままに忘却の闇に葬られてしまった。実に不可解な現象と言わなければなるまい。 それはとにかく、実に・・・ 寺田寅彦 「火事教育」
・・・そういう時は家内じゅうのものが寄り集まってこの大きな奇蹟を環視した。そのような事を繰り返す日ごと日ごとに、おぼつかない足のはこびが確かになって行くのが目に立って見えた。単純な感覚の集合から経験と知識が構成されて行く道筋はおそらく人間の赤子の・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・りんごをかじりながら街頭をあるくよりも、環視の中でメリーゴーラウンドに乗るよりもむしろいい事かもしれないのに、何かしらそれを引き止める心理作用があって私の勇気を沮喪させるのであった。そのためにこの文明の利器に親炙する好機会をみすみす取り逃が・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・これが自分の室内ならとにかく、税関の広い土間の真中で衆人環視のうちにやるのであるからシャツ一つになる訳にも行かない。実際に大汗をかいて長い時間を費やした後に、やっと無理やりに詰め込む事が出来たのであった。日本への土産にドイツやイギリスで買っ・・・ 寺田寅彦 「チューインガム」
・・・おおぜいが車座になってこの新しい同棲者の一挙一動を好奇心に満たされて環視しているのであった。猫に関する常識のない私にはすべてただ珍しい事ばかりであった。妻が抱き上げて顋の下や耳のまわりをかいてやると、胸のあたりで物の沸騰するような音を立てた・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・ ある時ある高い階級の婦人が衆人環視の中で人力車を降りる一瞬時の観察から、その人の皮膚のある特徴を発見してそれを人に話したので、実に恐ろしい女だと言ってそれが一つ話になった。 彼女は日本の女には珍しい立派な体格の所有者であった。容貌・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・きはこの自覚のために驕慢の念を起して、当面の務を怠ったり未来の計を忘れて、落ち付いている割に意気地がなくなる恐れはあるが、成上りものの一生懸命に奮闘する時のように、齷齪とこせつく必要なく鷹揚自若と衆人環視の裡に立って世に処する事の出来るのは・・・ 夏目漱石 「『東洋美術図譜』」
出典:青空文庫