・・・禿げ上がった額の生え際まで充血して、手あたりしだいに巻煙草を摘み上げて囲炉裡の火に持ってゆくその手は激しく震えていた。彼は父がこれほど怒ったのを見たことがなかった。父は煙草をそこまで持ってゆくと、急に思いかえして、そのまま畳の上に投げ捨てて・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ひとの羨むような美女でも、もし彼女がウェーブかセットを掛けた直後、なまなましい色気が端正な髪や生え際から漂っている時は、私はよしんば少しくらい惚れていても、顔を見るのもいやな気がする。私は今では十五分も女が待てない。女とそれきり会えないと判・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・ 白粉と安油の臭が、プーンとする薄い夜着に、持てあますほど、けったるい体をくるんで、寒そうに出した指先に反古を巻いて、小鼻から生え際のあたりをこすったり、平手で顔中を撫で廻したりして居たけれ共一人手に涙のにじむ様な淋しい、わびしい気持を・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・髪の下に、生え際のすんなりした低い額と、心持受け口の唇とがある。納戸の着物を着た肩があって、そこには肩あげがある。 目で見る現在の景色と断れ断れな過去の印象のジグザグが、すーっとレンズが過去に向って縮むにつれ、由子の心の中で統一した。・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
・・・ 何だか生え際の薄い様な人であったがなどとも思われる。 低いどっちかと云えば鼻に掛った声で、堪らなく可笑しい時には、上半身を後の方にのばして高笑をする様子が何だか中年の男の様な感じを与えたので、私はその人の笑声がすると注意して見て、・・・ 宮本百合子 「ひととき」
・・・ その叫びで、十三の痩せて雀斑だらけのアーニャは、生え際まで赧くなった。彼女は憤ったように垂髪を背中の方へ振りさばいて、叔母を睨んだ。彼女は、リボンのかわりに叔母の裁ち屑箱から細い紫繻子の布端を見つけ出した。彼女はそれを帽子を買って貰え・・・ 宮本百合子 「街」
出典:青空文庫