・・・そんな物は生憎ない。どこを見ても綺麗に掃除がしてある。片付けてある。家がきちんと並べて立ててある。およそ十二キロメエトルほど歩いて、自動車を雇ってホテルへ帰った。襟の包みは丁寧に自動車の腰掛の下へしまっておいて下りた。おれだって、あしたはき・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・ さて、午過ぎからは、家中大酒盛をやる事になったが、生憎とこの大雪で、魚屋は河岸の仕出しが出来なかったと云う処から、父は家のを殺して、出入の者共を饗応する事にした。一同喜び、狐の忍入った小屋から二羽の鶏を捕えて潰した。黒いのと、白い斑あ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・それにいつでも生憎手近に巡査がいて、おれの頸を攫んで引っ立てて行きゃあがった。それから盲もやってみた。する事の無い職人の真似もしてみた。皆駄目だ。も一つ足なしになって尻でいざると云うのがあるが、爺いさん、あれはおめえやらないがいいぜ。第一道・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・斯ういう時には誰れか来客があればよいと待っていたけれど生憎誰れも来ない。厭な一昼夜を過ごしてようよう翌朝になったが矢張前日の煩悶は少しも減じないので、考えれば考える程不愉快を増す許りであった。然るにどういうはずみであったか、此主観的の感じが・・・ 正岡子規 「死後」
・・・もっとも地獄の沙汰も金次第というから犢鼻褌のカクシへおひねりを一つ投げこめば鬼の角も折れない事はあるまいが生憎今は十銭の銀貨もないヤ。ないとして見りャうかとはして居られない。是非死ぬとなりャ遺言もしたいし辞世の一つも残さなけりャ外聞が悪いし・・・ 正岡子規 「墓」
・・・「賄はしてくれるんでしょうか」と念を押した。「へえ、どうせ美味しいものは出来ませんですが、致して見ましょう」「賄ともで幾何です?」 神さんは「さあ」と躊躇した。「生憎ただ今爺が御邸へまいっていてはっきり分りま・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・けれども、もっと皿数の多い、従ってもっと楽しかるべき晩食になると、彼は殆ど精神的な疲労さえ覚えた、猶悪いことには生憎これが降誕祭の晩ではないか。 縞の小さいエプロンをかけた彼女が食器を積んだ大盆を抱えて不本意らしく台所に出てゆく姿を見送・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・T子さんと粕壁へ藤見に行ったことがあるんですよ、そしたらその年は生憎藤は一つも咲いてないで、大掃除なのさ。粕壁へわざわざ大掃除見に来たって大笑いしたはいいが、食べる物がないんでしょう、ぺこぺこになってここへ辿りついた訳なんです。――二人であ・・・ 宮本百合子 「九月の或る日」
・・・ 便所は女中達の寝る二階からは、生憎遠い処にある。梯子を降りてから、長い、狭い廊下を通って行く。その行き留まりにあるのである。廊下の横手には、お客を通す八畳の間が両側に二つずつ並んでいてそのはずれの処と便所との間が、右の方は女竹が二三十・・・ 森鴎外 「心中」
・・・ 舟の着いたのは、木母寺辺であったかと思う。生憎風がぱったり歇んでいて、岸に生えている葦の葉が少しも動かない。向河岸の方を見ると、水蒸気に飽いた、灰色の空気が、橋場の人家の輪廓をぼかしていた。土手下から水際まで、狭い一本道の附いている処・・・ 森鴎外 「百物語」
出典:青空文庫