・・・そこから斜に濃い藍の一線を曳いて、青い空と一刷に同じ色を連ねたのは、いう迄もなく田野と市街と城下を巻いた海である。荒海ながら、日和の穏かさに、渚の浪は白菊の花を敷流す……この友禅をうちかけて、雪国の町は薄霧を透して青白い。その袖と思う一端に・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 時どき烟を吐く煙突があって、田野はその辺りから展けていた。レンブラントの素描めいた風景が散らばっている。 黝い木立。百姓家。街道。そして青田のなかに褪赭の煉瓦の煙突。 小さい軽便が海の方からやって来る。 海からあがって来た・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・の訳を話した時に、その訳がすらりと呑込めて、素直に座を譲ってくれたのも、こういう児であったればこそと先刻の事を反顧せざるを得なくもなり、また今残り餌を川に投げる方が宜いといったこの児の語も思合されて、田野の間にもこういう性質の美を持って生れ・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・ 先、堯典に見るにその事業は羲氏・和氏に命じて暦を分ちて民の便をはかり、その子を措いて孝道を以て聞えたる舜を田野に擧げて、之に位を讓れることのみ。而してその特異なる點は天文暦日に關するもの也。即ち天に關する分子なり。 次に舜典に徴す・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
・・・常緑樹林におおわれた、なだらかなすそ野の果ての遠いかなたの田野の向こうには、さし身を並べたような山列が斜め向きに並び、その左手の山の背には、のこぎり歯というよりは乱杭歯のような凹凸が見える。妙義の山つづきであろう。この山系とは独立して右のか・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・の広い田野をそういう道具で耕し始めてからの事である。ただの「人間の言語」だけであった昔の自然哲学は、これらの道具の掘り出した「自然自身の言語」によって内容の普遍性を増して行った。質だけを表わす言語に代って数を表わす言語の数が次第に増して行っ・・・ 寺田寅彦 「言語と道具」
・・・ 昔の土佐には田野の間に「シバテン」と称する怪物がいた。たぶん「柴天狗」すなわち木の葉天狗の意味かと想像される。夜中に田んぼ道を歩いているとどこからともなく小さな子供がやって来て、「おじさん、相撲取ろう」といどむ。これに応じてうっかり相・・・ 寺田寅彦 「相撲」
・・・ そして田野に円舞して、笑いさざめき歌を歌う生命の活気もなければ、専念に思考を練って穿ちに穿って行く強度も無く、表情が、力の欠乏に生気を失って居ると全く同様の状態が内奥の魂にまで食い入って居ります。愛する者をして愛さしめよ! 良人と自己・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・来る電車の中で、ひろびろとした田野の眺望の間を駛りながら、この感じがつよく重吉の胸に湧いたらしかった。重吉は、あたりにのり合わせている人々の視線を心づかないように並んで立っていたひろ子の肩に手をおいた。そして低い声で、「あるくのも、一緒・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・斑竹山房とは江戸へ移住するとき、本国田野村字仮屋の虎斑竹を根こじにして来たからの名である。仲平は今年四十一、お佐代さんは二十八である。長女須磨子についで、二女美保子、三女登梅子と、女の子ばかり三人出来たが、かりそめの病のために、美保子が早く・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫