・・・ 洋一は帳場机に坐りながら、店員の一人の顔を見上げた。「さっき、何だか奥の使いに行きました。――良さん。どこだか知らないかい?」「神山さんか? I don't know ですな。」 そう答えた店員は、上り框にしゃがんだまま、・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・が、ただ、彼の視線だけは、帳場机の後の女の顔へ、さっきからじっと注がれている。 女はまだ見た所、二十を越えてもいないらしい。それが壁へ貼った鏡を後に、絶えず鉛筆を動かしながら、忙しそうにビルを書いている。額の捲き毛、かすかな頬紅、それか・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・「私は実はこちらを拝見するのははじめてで、帳場に任して何もさせていたもんでございますから、……もっとも報告は確実にさせていましたからけっしてお気に障るような始末にはなっていないつもりでございますが、なにしろ少し手を延ばして見ますと、体が・・・ 有島武郎 「親子」
・・・妻がぎょっとするはずみに背の赤坊も眼を覚して泣き出した。帳場にいた二人の男は飛び上らんばかりに驚いてこちらを見た。そこには彼れと妻とが泣く赤坊の始末もせずにのそりと突立っていた。「何んだ手前たちは、戸を開けっぱなしにしくさって風が吹き込・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ いつぞやらん、その松任より、源平島、水島、手取川を越えて、山に入る、辰口という小さな温泉に行きて帰るさ、件の茶屋に憩いて、児心に、ふと見たる、帳場にはあらず、奥の別なる小さき部屋に、黒髪の乱れたる、若き、色の白き、痩せたる女、差俯向き・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・遣の出振りが面白い……小買ものや、芝居へ出かけに、お母さんが店頭に、多人数立働く小僧中僧若衆たちに、気は配っても見ないふりで、くくり頤の福々しいのに、円々とした両肱の頬杖で、薄眠りをしている、一段高い帳場の前へ、わざと澄ました顔して、黙って・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・押問答をしている内に、母はききつけて笑いながら、「民やは町場者だから、股引佩くのは極りが悪いかい。私はまたお前が柔かい手足へ、茨や薄で傷をつけるが可哀相だから、そう云ったんだが、いやだと云うならお前のすきにするがよいさ」 それで民子・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 初代の喜兵衛も晩年には度々江戸に上って、淡島屋の帳場に座って天禀の世辞愛嬌を振播いて商売を助けたそうだ。初代もなかなか苦労人でかつ人徳があったが、淡島屋の身代の礎を作ったのは全く二代目喜兵衛の力であった。四 狂歌師岡鹿楼笑名・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・と、悄気返って頻に愚痴ったので、帳場の主人が気の毒がって、「暫らくお待ち下さいまし」と奥へ相談に行き、「折角ですから一尾でお宜しければ……」といった。「一尾結構、」と古川先生大いに満足して一尾の鰻を十倍旨く舌打して賞翫したという逸事がある。・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・はジリジリと来て、長い代りには前ほどに苦しまぬので、下腹や腰の周囲がズキズキ疼くのさえ辛抱すれば、折々熱が出たり寒気がしたりするくらいに過ぎぬから、今のところではただもう暢気に寝たり起きたりしている。帳場と店とは小僧対手に上さんが取り仕切っ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫