・・・私の眼蓋にあてがう。快い猫の重量。温かいその蹠。私の疲れた眼球には、しみじみとした、この世のものでない休息が伝わって来る。 仔猫よ! 後生だから、しばらく踏み外さないでいろよ。お前はすぐ爪を立てるのだから。・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・ 円座を打ち敷きて、辰弥は病後の早くも疲れたる身を休めぬ。差し向いたる梅屋の一棟は、山を後に水を前に、心を籠めたる建てようのいと優なり。ゆくりなく目を注ぎたるかの二階の一間に、辰弥はまたあるものを認めぬ。明け放したる障子に凭りて、こなた・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 泣いたのと暴れたので幾干か胸がすくと共に、次第に疲れて来たので、いつか其処に臥てしまい、自分は蒼々たる大空を見上げていると、川瀬の音が淙々として聞える。若草を薙いで来る風が、得ならぬ春の香を送って面を掠める。佳い心持になって、自分は暫・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・日々の論議、月々の難、両度の流罪に身疲れ、心いたみ候ひし故にや、此の七八年が間、年々に衰病起り候ひつれども、なのめにて候ひつるが、今年は正月より其の気分出来して、既に一期をはりになりぬべし。其の上齢すでに六十にみちぬ。たとひ十に一、今年は過・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・彼は疲れて憂欝になっていた。太陽が、地球を見棄ててどっかへとんで行っているような気がした。こんな状態がいつまでもつづけばきっと病気にかかるだろう。――それは、松木ばかりではなかった。同年兵が悉く、ふさぎこみ、疲憊していた。そして、女のところ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・蟻が塔を造るような遅たる行動を生真面目に取って来たのであるから、浮世の応酬に疲れた皺をもう額に畳んで、心の中にも他の学生にはまだ出来ておらぬ細かい襞が出来ているのであった。しかし大学にある間だけの費用を支えるだけの貯金は、恐ろしい倹約と勤勉・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・ 眼下の線路を玩具のような客車が上りになっているこっちへ上ってくるのが見えた。疲れきったようなバシュバシュという音がきこえる。時々寒い朝の呼吸のような白い煙を円くはきながら。 * その暮れ方、土工夫らはいつものように・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・めずらしく気分のよい日が来たあとには、また疲れやすく、眩暈心地のするような日が続いた。毎朝の気分がその日その日の健康を予報する晴雨計だった。私の健康も確実に回復するほうに向かって行ったが、いかに言ってもそれが遅緩で、もどかしい思いをさせた。・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・大根を引くので疲れたのかもしれない。小母さんの静かな寝顔をじっと見ていると、自分もだんだんに瞼が重くなる。 千鳥の話は一と夜明ける。 自分は中二階で長い手紙を書いている。藤さんが、「兄さん」と言ってはいってくる。「あのた・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・一面の焼野原、市松の浴衣着た女が、たったひとり、疲れてしゃがんでいた。私は、胸が焼き焦げるほどにそのみじめな女を恋した。おそろしい情慾をさえ感じました。悲惨と情慾とはうらはらのものらしい。息がとまるほどに、苦しかった。枯野のコスモスに行き逢・・・ 太宰治 「ア、秋」
出典:青空文庫