・・・透谷君の晩年を慰めた一人の女の友達があったが、病床にいる時に、それとなくこの人に書いて宛てた慰めの言葉は、確か『山庵雑記』の中に出ている筈だ。あれは極く短いものだが、兎に角病人に対する深い理解や、同情が籠っていると思う。この女の友達が死んだ・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・ 老人は今、病床にある。遊びから受けた病気であった。老人には暮しに困らぬほどの財産があった。けれどもそれは、遊びあるくのには足りない財産であった。老人は、いま死ぬることを残念であるとは思わなかった。ほそぼそとした暮しは、老人には理解でき・・・ 太宰治 「逆行」
・・・恐らく真実というものは、こういう風にしか語れないものでしょうからね。病床の作者の自愛を祈るあまり慵斎主人、特に一書を呈す。何とぞおとりつぎ下さい。十日深夜、否、十一日朝、午前二時頃なるべし。深沼太郎。吉田潔様硯北。」「どうだい。これなら・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・このような時代に、からだが悪くて兵隊にもなれず、病床で息を引きとる若いひとは、あわれである。あとで三井君の親友から聞いたが、三井君には、疾患をなおす気がなかったようだ。御母堂と三井君と二人きりのわびしい御家庭のようであるが、病勢がよほどすす・・・ 太宰治 「散華」
・・・婆さん、しだいに慾が出て来て、あの薬さえなければ、とつくづく思い、一夜、あるじへ、わが下ごころ看破されぬようしみじみ相談持ち掛けたところ、あるじ、はね起きて、病床端坐、知らぬは彼のみ、太宰ならばこの辺で、襟掻きなおして両眼とじ、おもむろに津・・・ 太宰治 「創生記」
十二月始めのある日、珍しくよく晴れて、そして風のちっともない午前に、私は病床から這い出して縁側で日向ぼっこをしていた。都会では滅多に見られぬ強烈な日光がじかに顔に照りつけるのが少し痛いほどであった。そこに干してある蒲団から・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・音の絶え間をつなぐ船歌の声、そういう種類のものの忠実なるレコードができたとすれば、塵の都に住んで雑事に忙殺されているような人が僅少な時間をさいて心を無垢な自然の境地に遊ばせる事もできようし、長い月日を病床に呻吟する不幸な人々の神経を有害に刺・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・ 高等学校を出て大学へはいる時に、先生の紹介をもらって上根岸鶯横町に病床の正岡子規子をたずねた。その時、子規は、夏目先生の就職その他についていろいろ骨を折って運動をしたというような話をして聞かせた。実際子規と先生とは互いに畏敬し合った最・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・父の最後の病床にその枕もと近く氷柱を置いて扇風器がかけてあった。寒暖計は九十余度を越して忘れ難い暑い日であった。丑女はその氷柱をのせたトタン張りの箱の中にとけてたまった水を小皿でしゃくっては飲んでいた。そんなものを飲んではいけないと言って制・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・そして子供のない兄の病床の寂しさを思いながら、辰之助と連れ立ってそこを辞した。 ステイションへは多勢来ていた。二人の姉もふみ江も来ていた。宗匠もおひろも見えたが、道太はそれでもお絹が来ておりはしないかと、乗ってからもあたりに目を配ってい・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫