・・・僕があの女に会ったのは、大学病院へやって来た時に、若槻にもちょいと頼まれていたから、便宜を図ってやっただけなんだ。蓄膿症か何かの手術だったが、――」 和田は老酒をぐいとやってから、妙に考え深い目つきになった。「しかしあの女は面白いや・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・ 同仁病院長山井博士の診断に従えば、半三郎の死因は脳溢血である。が、半三郎自身は不幸にも脳溢血とは思っていない。第一死んだとも思っていない。ただいつか見たことのない事務室へ来たのに驚いている。―― 事務室の窓かけは日の光の中にゆっく・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・そしてお前達の一人か二人を連れて病院に急いだ。私がその町に住まい始めた頃働いていた克明な門徒の婆さんが病室の世話をしていた。その婆さんはお前たちの姿を見ると隠し隠し涙を拭いた。お前たちは母上を寝台の上に見つけると飛んでいってかじり付こうとし・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・も、背中で倚り掛かる所にも、脚の所にも白い革紐が垂れていなくって、金属で拵えた首を持たせる物がなくって、乳色の下鋪の上に固定してある硝子製の脚の尖がなかったなら、これも常の椅子のように見えて、こんなに病院臭く、手術台か何かのようには見えない・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 一枚、畚褌の上へ引張らせると、脊は高し、幅はあり、風采堂々たるものですから、まやかし病院の代診なぞには持って来いで、あちこち雇われもしたそうですが、脉を引く前に、顔の真中を見るのだから、身が持てないで、その目下の始末で。…… 変に・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・そこからまた一千メートル程のとこに第○師団第二野戦病院があって、そこへ転送され、二十四日には長嶺子定立病院にあった。その間に僕の左の腕が無うなっとった。寝台の上に仰向けになったまま、『おや腕が』と気付いたんやが、その時第一に僕の目に見えたん・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・丁度大学病院の外来患者の診察札を争うような騒ぎであったそうだ。 淡島屋の軽焼の袋の裏には次の報条が摺込んであった。余り名文ではないが、淡島軽焼の売れた所以がほぼ解るから、当時の広告文の見本かたがた全文を掲げる。私店けし入軽焼の義・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・人間は、馬や、牛や、犬や、ねこのために、病院まで建ててやっているのに、私たちの病院というようなものを、まだ建てていない。こうした大不公平は、ここに挙げ尽くされないほどある。これに対して、あなたがた同様、私たちが、黙っているものですか。」と、・・・ 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
・・・そして、田所さんの世話で造船所の倉庫番をしたり、病院の雑役夫になったりして、そのわずかの給金の中から、禁酒貯金と秋山さん名義の貯金を続けましたが、秋山さんからは何の便りも来なかった。もっともお互い今度会う時まで便りをしないでおこうという約束・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 産婆の世話で、どこかの病院かで産まして、それから下宿の下の三畳の部屋でもあてがって、当分下宿で育てさせる――だいたいそうと相談をきめてあったのだが、だんだん時期の切迫とともに、自分の神経が焦燥しだした。「あなたの奥さんのうちは財産・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
出典:青空文庫