・・・ 何しろお前たちは見るに痛ましい人生の芽生えだ。泣くにつけ、笑うにつけ、面白がるにつけ淋しがるにつけ、お前たちを見守る父の心は痛ましく傷つく。 然しこの悲しみがお前たちと私とにどれ程の強みであるかをお前たちはまだ知るまい。私たちはこ・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・やがて夫人が、一度、幻に未生のうない子を、病中のいためる御胸に、抱きしめたまう姿は、見る目にも痛ましい。その肩にたれつつ、みどり児の頸を蔽う優しき黒髪は、いかなる女子のか、活髪をそのままに植えてある。…… われら町人の爺媼の風説であろう・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・なにか痛ましい気持がするではないか。悲劇の人をここに見るような気すらする。 その坂田のことを、私はある文芸雑誌の八月号に書いたのだ。その雑誌が市場に出てからちょうど一月が経とうとしているが、この一月私はなにか坂田に対して済まぬことをした・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・しかしすぐと笑っているさまは、打たれたことをすっかり忘れてしまったらしく、これを見て私は、なおさらこの白痴の痛ましいことを感じました。 かかるありさまですから、六蔵が歌など知っているはずもなさそうですが、知っています。木拾いの歌うような・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・しかしかれと対座してその眼を見、その言葉をきくと、この例でもなお言い足りないで、さらに悲しい痛ましい命運の秘密が、その形骸のうちに潜んでいるように思われた。 不平と猜忌と高慢とがその眼に怪しい光を与えて、我慢と失意とが、その口辺に漂う冷・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・ニイチェこそは、実に近代の苦悩を一人で背負つた受難者であり、我々の時代の痛ましい殉教者であつた。その意味に於て、ニイチェは正しく新時代のキリストである。耶蘇キリストは、万人の罪を一人で背負ひ、罪なくして十字架の上に死んだ。フリドリヒ・ニイチ・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・何か痛ましい、東洋の不純な都会風の陰翳が、くっきり小さい体躯に写し出されて居るのである。 私は、その雀が、何かに怯えて、一散に屋根へ戻った後、猶二掴三掴の粟を庭に撒いた。明日まだ靄のある暁のうち、彼等の仲間は、安心して此処におり、彼那に・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・ 我々及び我々の背後に永劫の未来に瞑る幾多数うべくもあらぬ人の群は、皆大いなるものの面をみにくき仮面もて被い、其を本来の面差しと思いあやまって見ると云う痛ましい事実を抱いて居る。 何物を以ても抗し得ぬ時代の潮に今日も明日もとただよい・・・ 宮本百合子 「大いなるもの」
・・・ 物凄い形に引きしまった痛ましい感情が私の胸に湧き返って座っても居られない様なさりとて足軽くあちらこちらとさ迷えもしない身をたよりなくポツントはかなく咲くはちすのうす紫に目をひかれて居た。 激しく疲れたと云えば云えるし気の抜けた様な・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・は、それを見る毎に、涙がこぼれる様な、痛ましい記録となって、私の傍に残って居る。 自分が、非常に望をかけて居た者を、不意に、素方から飛び出した者の手に、奪われてしまったと云う事は、どんなに私を失望させた事だろう。 その当時から見れば・・・ 宮本百合子 「暁光」
出典:青空文庫