・・・が、突然ふり返ると、さもがっかりしたように白墨の欠を抛り出した。「どうも素人の堀川君を相手じゃ、せっかくの発見の自慢も出来ない。――とにかく長谷川君の許嫁なる人は公式通りにのぼせ出したようだ。」「実際そう云う公式がありゃ、世の中はよ・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・ その職員室真中の大卓子、向側の椅子に凭った先生は、縞の布子、小倉の袴、羽織は袖に白墨摺のあるのを背後の壁に遣放しに更紗の裏を捩ってぶらり。髪の薄い天窓を真俯向けにして、土瓶やら、茶碗やら、解かけた風呂敷包、混雑に職員のが散ばったが、そ・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ ――わあ―― と罵るか、笑うか、一つ大声が響いたと思うと、あの長靴なのが、つかつかと進んで、半月形の講壇に上って、ツと身を一方に開くと、一人、真すぐに進んで、正面の黒板へ白墨を手にして、何事をか記すのです、――勿論、武装のままであ・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・ そのコンクリートの壁には、看守の目を盗んで書いたらしく、泥や――時には、何処から手に入れるものか白墨で「共」という字や、中途半端な「※や、K・Pという字が幾つも書かれている。看守が見付け次第それを消して廻わるのだが、次の日になると、又・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ この弟の言葉を聞くと、それまで妹と一緒に黒板の前に立って何かいたずら書きをしていた次郎が、白墨をそこに置いて三郎のいるほうへ行った。「そりゃ、引っこ抜いて持って行ったって、かまうもんか――もとからここの庭にあった植木でさえなければ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・こうすれば、言葉と白墨の線とによって、大きさや角度や三角函数などの概念を注ぎ込むよりも遥かに早く確実に、おまけに面白くこれらの数学的関係を呑み込ませる事が出来る。一体こういう学問の実際の起原はそういう実用問題であったではないか。例えばタレー・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・警官はそれを聞きながら白墨で腰掛のようなところへ何か書き止めていた。なかなか忙しそうである。私は少し気の毒になって来た。 警官は電車を待たさないために車掌の姓名を自署さしてすぐに帰した。それから私に「貴方御いそぎですか」と聞いた。私はこ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ちょうどこの白墨について云うと、白い色と白墨の形とを切離すようなものでこの格段な白墨を目安にして論ずると白い色をとれば形はなくなってしまいますし、またこの形をとれば白い色も消えてしまいます。両つのものは二にして一、一にして二と云ってもしかる・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ネギの白味、豚の白味、茶碗の欠片、白墨など。細い板の上にそれらのどれかをくくりつけ、先の方に三本ほど、内側にまくれたカギバリをとりつける。そして、オモリをつけて沈めておくと、タコはその白いものに向かって近づいて来る。食べに来るわけではなく、・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・黒板から降る白墨の粉のような、暗い冷たい霧の粒が、そこら一面踊りまわり、あたりがにわかにシインとして、陰気に陰気になりました。草からは、もうしずくの音がポタリポタリと聞こえて来ます。 嘉助は、もう早く一郎たちの所へ戻ろうとして急いで引っ・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
出典:青空文庫