・・・刈り込んだ髯に交る白髪が、忘るべからざる彼の特徴のごとくに余の眼を射た。ただ血の漲ぎらない両頬の蒼褪めた色が、冷たそうな無常の感じを余の胸に刻んだだけである。 余が最後に生きた池辺君を見たのは、その母堂の葬儀の日であった。柩の門を出よう・・・ 夏目漱石 「三山居士」
・・・誰がどうしないでも、独りでにお前の頭には白髪が殖えて来るんだ。腰が曲って来るんだ。眼が霞み始めるんだ。皺だらけの、血にまみれた手で、そこでやかましく、泣き立てている赤ん坊の首筋を掴もうとしても、その手さえ動かなくなるんだ。お前が殺し切れなか・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・り 梅は白し浪花橋辺財主の家 春情まなび得たり浪花風流郷を辞し弟に負て身三春 本をわすれ末を取接木の梅故郷春深し行々て又行々 楊柳長堤道漸くくれたり矯首はじめて見る故園の家黄昏戸に倚る白髪の人弟を抱き我を待春又春君不見古・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 雪婆んごの、ぼやぼやつめたい白髪は、雪と風とのなかで渦になりました。どんどんかける黒雲の間から、その尖った耳と、ぎらぎら光る黄金の眼も見えます。 西の方の野原から連れて来られた三人の雪童子も、みんな顔いろに血の気もなく、きちっと唇・・・ 宮沢賢治 「水仙月の四日」
・・・ すぐ赭ら顔の白髪の元気のよさそうなおじいさんが、かなづちを持ってよこの室から顔〔以下原稿数枚なし〕が、桃いろの紙に刷られた小さなパンフレットを、十枚ばかり持って入って来ました。「お早うございます。なあに却って御愛嬌ですよ。・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・ 何故、この白髪蓬々の、膝からじかに大きな瞼に袋の下った顔がくっついているように見える程腰の曲った婆さんが、姓も名も呼ばれず、沢やという屋号で呼ばれているのか? 亭主はあったのか? なかったのか? 何か沢やらしい商売でもしていたのか? ・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・うがマア、そのやせ我まんと云う仮面をぬいで赤裸の心を出さにゃならぬワ、昨日今日知りあった仲ではないに……第一の精霊ほんとうにそうじゃ、春さきのあったかさに老いた心の中に一寸若い心が芽ぐむと思えば、白髪のそよぎと、かおのしわがすぐ枯らして・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・この予期すべき出来事を、桂屋へ知らせに来たのは、ほど遠からぬ平野町に住んでいる太郎兵衛が女房の母であった。この白髪頭の媼の事を桂屋では平野町のおばあ様と言っている。おばあ様とは、桂屋にいる五人の子供がいつもいい物をおみやげに持って来てくれる・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・ロダンが白髪頭をのぞけた。「許して下さい。退屈したでしょう。」「いいえ、ボオドレエルを読んでいました」と云いながら、久保田は為事場に出て来た。 花子はもうちゃんと支度をしている。 卓の上には esquisses が二枚出来て・・・ 森鴎外 「花子」
・・・たっぷりある、半明色の髪に少し白髪が交って、波を打って、立派な額を囲んでいる。鼻は立派で、大きくて、しかも優しく、鼻梁が軽く鷲の嘴のように中隆に曲っている。髭は無い。口は唇が狭く、渋い表情をしているが、それでも冷酷なようには見えない。歯は白・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫