・・・その内に彼等の旅籠の庭には、もう百日紅の花が散って、踏石に落ちる日の光も次第に弱くなり始めた。二人は苦しい焦燥の中に、三年以前返り打に遇った左近の祥月命日を迎えた。喜三郎はその夜、近くにある祥光院の門を敲いて和尚に仏事を修して貰った。が、万・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・丹波鬼灯、海酸漿は手水鉢の傍、大きな百日紅の樹の下に風船屋などと、よき所に陣を敷いたが、鳥居外のは、気まぐれに山から出て来た、もの売で。―― 売るのは果もの類。桃は遅い。小さな梨、粒林檎、栗は生のまま……うでたのは、甘藷とともに店が違う・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・……土塀の崩屋根を仰いで血のような百日紅の咲満ちた枝を、涼傘の尖で擽ぐる、と堪らない。とぶるぶるゆさゆさと行るのに、「御免なさい。」と言ってみたり。石垣の草蒸に、棄ててある瓜の皮が、化けて脚が生えて、むくむくと動出しそうなのに、「あれ。」と・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 杉の生垣をめぐると突き当たりの煉塀の上に百日紅が碧の空に映じていて、壁はほとんど蔦で埋もれている。その横に門がある。樫、梅、橙などの庭木の門の上に黒い影を落としていて、門の内には棕櫚の二、三本、その扇めいた太い葉が風にあおられながらぴ・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・「春子さん、何物も無いじアありませんか。」「ほら其処に妙な物が。……貴様お眼が悪いのねエ」「どれです。」「百日紅の根に丸い石があるでしょう。」「あれが如何したのです。」「妙でしょう。」「何故でしょう。」といいなが・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ 玄関の前の百日紅は、ことしは花が咲きませんでした。「そうなんでしょうね。」 私もぼんやり答えました。 それが、夫と交した最後の夫婦らしい親しい会話でございました。 雨がやんで、夫は逃げるようにそそくさと出かけ、それから・・・ 太宰治 「おさん」
・・・のペエソス、「百日紅」に於ける強烈な自己凝視など、外国十九世紀の一流品にも比肩出来る逸品と信じます。お手紙に依れば、君は無学で、そうして大変つまらない作家だそうですが、そんな、見え透いた虚飾の言は、やめていただく。君が無学で、下手な作家なら・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・十三坪のひろさの裏庭がついていて、あの二本の紅梅が植えられてあるほかに、かなりの大きさの百日紅もあれば、霧島躑躅が五株ほどもある。昨年の夏には、玄関の傍に南天燭を植えてやった。それで屋賃が十八円である。高すぎるとは思わぬ。二十四五円くらい貰・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・ねむ。百日紅。葵。日まわり。夾竹桃。蓮。それから、鬼百合。夏菊。どくだみ。みんな好きです。ただ、木槿だけは、きらいです。」 私は自分が浮き浮きとたくさんの花の名をかぞえあげたことに腹を立てていた。不覚だ! それきり、ふっと一ことも口をき・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・石榴の花と百日紅とは燃えるような強い色彩を午後の炎天に輝し、眠むそうな薄色の合歓の花はぼやけた紅の刷毛をば植込みの蔭なる夕方の微風にゆすぶっている。単調な蝉の歌。とぎれとぎれの風鈴の音――自分はまだ何処へも行こうという心持にはならずにいる。・・・ 永井荷風 「夏の町」
出典:青空文庫