・・・ 譚は老酒に赤らんだ顔に人懐こい微笑を浮かべたまま、蝦を盛り上げた皿越しに突然僕へ声をかけた。「それは含芳と言う人だよ」 僕は譚の顔を見ると、なぜか彼にはおとといのことを打ち明ける心もちを失ってしまった。「この人の言葉は綺麗・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・ 給仕はすぐに言いつけられた通り、床の上の金貨を掃き集めて、堆く側のテエブルへ盛り上げました。友人たちは皆そのテエブルのまわりを囲みながら、「ざっと二十万円くらいはありそうだね。」「いや、もっとありそうだ。華奢なテエブルだった日・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・ うず高に水を盛り上げてる天神川は、盛んに濁水を両岸に奔溢さしている。薄暗く曇った夕暮の底に、濁水の溢れ落つる白泡が、夢かのようにぼんやり見渡される。恐ろしいような、面白いような、いうにいわれない一種の強い刺戟に打たれた。 遠く亀戸・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・行儀よく作られた苗坪ははや一寸ばかりの厚みに緑を盛り上げている。燕の夫婦はいつしか二つがいになった、時々緑の短冊に腹を擦って飛ぶは何のためか。心長閑にこの春光に向かわば、詩人ならざるもしばらく世俗の紛紜を忘れうべきを、春愁堪え難き身のおとよ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 椿岳の画は今の展覧会の絵具の分量を競争するようにゴテゴテ盛上げた画とは本質的に大に違っておる。大抵は悪紙に描きなぐった泥画であるゆえ、田舎のお大尽や成金やお大名の座敷の床の間を飾るには不向きであるが、悪紙悪墨の中に燦めく奔放無礙の稀有・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 黄に盛り上げた「アイスクリイム」、夏の果物、菓子等がそこへ持運ばれた。相川は巻煙草を燻しながら、「時に、原君、今度はどうかいう計画があって引越して来るかね」「計画とは?」と原はハンケチで長い口髭を拭いた。「だって君、そうじ・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・それを、リキュールの杯ぐらいな小さなガラス器に頭を丸く盛り上げたのが、中学生にとってはなかなか高価であって、そうむやみには食われなかった。それからまた、現在の二葉屋のへんに「初音」という小さな汁粉屋があって、そこの御膳汁粉が「十二か月」のよ・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ある夜顔色の美しい女客の顔を電燈の光でしみじみ見ていると頬や額の明るい所がどうしてもまだかわかぬ生の絵の具をべっとり盛り上げたような気がしてしかたがなかった、そしてその光った所が顔の運動につれていろいろに変わるのを見とれているうちに、相手の・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・すべてがただ紙の表面へたんねんに墨と絵の具をすりつけ盛り上げたものとしか感じられない。先日の朝日新聞社の大展覧会でみた雅邦でもコケオドシとしか見えなかった。春挙でも子供だましとしか思わなかった。そんな目で展覧会を見て評をするのは気の毒のよう・・・ 寺田寅彦 「昭和二年の二科会と美術院」
・・・広場の片すみに高く小砂を盛り上げた土手のようなものがあった。自分らはこれを天文台と名づけていたが、実は昔の射的場の玉よけの跡であったので時々砂の中から長い鉛玉を掘り出す事があった。年上の子供はこの砂山によじ登ってはすべり落ちる。・・・ 寺田寅彦 「花物語」
出典:青空文庫