・・・その狂暴を募らせるように烈しい盛夏が来た。春先きの長雨を償うように雨は一滴も降らなかった。秋に収穫すべき作物は裏葉が片端から黄色に変った。自然に抵抗し切れない失望の声が、黙りこくった農夫の姿から叫ばれた。 一刻の暇もない農繁の真最中に馬・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ただ夏至のはじめの第一日、村の人の寝心にも、疑いなく、時刻も違えず、さらさらと白銀の糸を鳴して湧く。盛夏三伏の頃ともなれば、影沈む緑の梢に、月の浪越すばかりなり。冬至の第一日に至りて、はたと止む、あたかも絃を断つごとし。 周囲に柵を結い・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・賑いますのは花の時分、盛夏三伏の頃、唯今はもう九月中旬、秋の初で、北国は早く涼風が立ますから、これが逗留の客と云う程の者もなく、二階も下も伽藍堂、たまたまのお客は、難船が山の陰を見附けた心持でありますから。「こっちへ。」と婢女が、先に立・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・けれど其れは盛夏の頃である。こう、日々にさびれて、涼しくなるといずれも帰ってしまう。今は、西洋人は此の二人よりないらしい。それで子供等は、西洋人を物珍らしく思うのであろう。二人の西洋人は、ある宿屋の店に腰をかけて、暮れゆく夜の山を見ながら話・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・あるいは寛喜、貞永とつづいて飢饉が起こって百姓途上にたおれ、大風洪水が鎌倉地方に起こって人畜を損じ、奥州には隕石が雨のごとく落ち、美濃には盛夏に大雪降り、あるいは鎌倉の殿中に怪鳥集まるといった状況であった。日蓮は世相のただならぬことを感じた・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ネロの美貌を、盛夏の日まわりにたとえるならば、ブリタニカスは、秋のコスモスであった。ネロは、十一歳。ブリタニカスは、九歳。 奇妙な事件が起った。ネロが昼寝していたとき、誰とも知られぬやわらかき手が、ネロの鼻孔と、口とを、水に濡れた薔薇の・・・ 太宰治 「古典風」
・・・その事件のおこった時は、勝治二十三歳、節子十九歳の盛夏である。 事件は既に、その三年前から萌芽していた。仙之助氏と勝治の衝突である。仙之助氏は、小柄で、上品な紳士である。若い頃には、かなりの毒舌家だったらしいが、いまは、まるで無口である・・・ 太宰治 「花火」
・・・南国の盛夏の真昼間の土蔵の二階の窓をしめ切って、満身の汗を浴びながら石油ランプに顔を近寄せて、一生懸命に朦朧たる映像を鮮明にかつ大きくすることに苦心した当時の心持ちはきのうのことのように記憶に新たである。青と赤のインキで塗った下手な鳥の絵の・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・ 盛夏の朝早く「ええ朝顔やあさがお」と呼び歩くのは去年も聞いた。買ってくれそうな家の付近では繰り返し往復して、それでも買わないとあきらめて行ってしまったのは昔のことで、今ではやはり裏木戸から台所へはいって来て、主人や主婦を呼び出すのが多・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・ 紐育にては稀に夕立ふることあり。盛夏の一夕われハドソン河上の緑蔭を歩みし時驟雨を渡頭の船に避けしことあり。 漢土には白雨を詠じたる詩にして人口に膾炙するもの東坡が望湖楼酔書を始め唐韓かんあくが夏夜雨、清呉錫麒が澄懐園消夏襍詩なぞそ・・・ 永井荷風 「夕立」
出典:青空文庫