・・・色が濃すぎたと思って直すときっと薄すぎる。直しているうちに輪郭もくずれて来るし、一筆ごとに顔がだんだん無惨に情けなく打ちこわされて行く。その時の心持ちはずいぶんいやなものである。早く中止すればいいと思わない事はないが、そういう時に限って未練・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・朝寝が好きで、髪を直すに時間を惜しまず、男を相手に卑陋な冗談をいって夜ふかしをするのが好きであるが、その割には世帯持がよく、借金のいい訳がなかなか巧い。年は二十五、六、この社会の女にしか見られないその浅黒い顔の色の、妙に滑っこく磨き込まれて・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・無論大した怪我ではないと合点して、車掌は見向きもせず、曲り角の大厄難、後の綱のはずれかかるのを一生懸命に引直す。車は八重に重る線路の上をガタガタと行悩んで、定めの停留場に着くと、其処に待っている一団の群集。中には大きな荷物を脊負った商人も二・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・残るはちょと居ずまいを直す。誰も這入って来た気色はない。「隣だ」と髯なしが云う。やがて渋蛇の目を開く音がして「また明晩」と若い女の声がする。「必ず」と答えたのは男らしい。三人は無言のまま顔を見合せて微かに笑う。「あれは画じゃない、活きている・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・この一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。テニソンの『アイジルス』は優麗都雅の点において古今の雄篇たるのみならず性格の描写においても十九世紀の人間を古代の舞台に躍らせるようなかきぶりであるから、かかる短篇を草するには大に参考すべき長詩で・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・僕がこしらえ直すから。」「ああ、いいとも。明日の晩までにはきっと持って来てあげよう。」「そうか。それはどうもありがとう。ではお願いするよ。さよならね。」 カン蛙は大よろこびで自分のおうちへ帰って寝てしまいました。 ・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・ 烏の大尉はこちらで、その姿勢を直すはねの音から、そのマジエルを祈る声まですっかり聴いて居りました。 じぶんもまたためいきをついて、そのうつくしい七つのマジエルの星を仰ぎながら、ああ、あしたの戦でわたくしが勝つことがいいのか、山烏が・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
・・・ そして、フランスの知識人は、彼等の人生に正当なおき場所で政治をうけとり直すために全く大きい自己の犠牲と努力を要したのである。 ○ 北原白秋の『近代風景』はなつかしい。 ここに梶井基次郎の「筧の音」と・・・ 宮本百合子 「折たく柴」
・・・その手を吭の下に持って行って襟を直す。直すかと思うと、その手を下へ引くのだが、その引きようが面白い。手が下まで下りて来る途中で、左の乳房を押えるような運動をする。さて下りたかと思うと、その手が直ぐに又上がって、手の甲が上になって、鼻の下を右・・・ 森鴎外 「心中」
・・・その間に私は自分を鋳直すことができたつもりであった。 しかしメフィストはなお自分の内に活きている。彼の根柢は意外に深い。事ごとに彼はピョイピョイ飛び出して来る。そうしてその瞬間に私は彼を喝采する心持ちになっている。たとえすぐそのあとでそ・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫