・・・ 娘は、赤い蝋燭を自分の悲しい思い出の記念に、二三本残して行ってしまったのです。五 ほんとうに穏かな晩でありました。お爺さんとお婆さんは、戸を閉めて寝てしまいました。 真夜中頃であります。とん、とん、と誰か戸を叩く者・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
・・・ちょうど真夜中の一時から、二時ごろにかけてでありました。夜の中でも、いちばんしんとした、寒い刻限でありました。「いまごろは、だれも、この寒さに、起きているものはなかろう。木立も、眠っていれば、山にすんでいる獣は、穴にはいって眠っているで・・・ 小川未明 「ある夜の星たちの話」
・・・人々はその後もたびたび真夜中に、牛女がさびしそうに町の中を歩いている姿を見たのでありました。「きっと牛女は、子供が故郷から出ていってしまったのを知らないのだろう。それで、この町の中を歩いて、子供を探しているのにちがいない。」と、人々はい・・・ 小川未明 「牛女」
・・・はこないだうちからの疲れがあるので、今日は宵の内から二階へ上って寝てしまうし、小僧は小僧でこの二三日の睡不足に、店の火鉢の横で大鼾を掻いている、時計の音と長火鉢の鉄瓶の沸るのが耳立って、あたりはしんと真夜中のよう。 新所帯の仏壇とてもな・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・たぶん今は真夜中だと感ちがいしたのだろう。それほど、プラネタリュウムが映しだす夜のリアリティは真に迫っていたのである。 織田作之助 「星の劇場」
・・・ 私が寐る前に入浴するのはいつも人々の寝しずまった真夜中であった。その時刻にはもう誰も来ない。ごうごうと鳴り響く溪の音ばかりが耳について、おきまりの恐怖が変に私を落着かせないのである。もっとも恐怖とはいうものの、私はそれを文字通りに感じ・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・然し今でも真夜中にふと眼を醒ますと酒も大略醒めていて、眼の先を児を背負ったお政がぐるぐる廻って遠くなり近くなり遂に暗の中に消えるようなことが時々ある。然し別に可怕しくもない。お政も今は横顔だけ自分に見せるばかり。思うに遠からず彼方向いて去っ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ その日の真夜中、ふたり、汽車に乗った。汽車が動き出して、Kも、私も、やっと、なんだか、ほっとする。「小説は?」「書けない。」 まっくら闇の汽車の音は、トラタタ、トラタタ、トラタタタ。「たばこ、のむ?」 Kは、三種類・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・よくこんな真夜中に、お庭を歩きまわっているけれど、何をしているのかしら。カアは、可哀想。けさは、意地悪してやったけれど、あすは、かわいがってあげます。 私は悲しい癖で、顔を両手でぴったり覆っていなければ、眠れない。顔を覆って、じっとして・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・母屋の御祝言の騒ぎも、もうひっそり静かになっていたようでございましたし、なんでも真夜中ちかくでございましたでしょう。秋風がさらさらと雨戸を撫でて、軒の風鈴がその度毎に弱弱しく鳴って居りましたのも幽かに思いだすことができるのでございます。ええ・・・ 太宰治 「葉」
出典:青空文庫