・・・眩しいような真昼の光の下に相角逐し、駈けり狂うて汀をめぐる。汀の草が踏みしだかれて時々水のしぶきが立つ。やがて狂い疲れて樹蔭や草原に眠ってしまう。草原に花をたずねて迷う蜂の唸りが聞える。 日が陰って沼の面から薄糸のような靄が立ち始める。・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・欅の並木をつつむ真昼の寒い霧。向うから幸福な二人連れが来てすれちがう。また向うからただ一人、洋紅色のコートを着た若い令嬢が俯向いたまま白いショールで口を蔽うて、ゆっくりゆっくり歩いて来る。血色のいい頬、その頬が涙で洗われている。 正月の・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・先生は時々かかる暮れがた近く、隣の家から子供のさらう稽古の三味線が、かえって午飯過ぎの真昼よりも一層賑かに聞え出すのに、眠るともなく覚めるともなく、疲れきった淋しい心をゆすぶらせる。家の中はもう真暗になっているが、戸外にはまだ斜にうつろう冬・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 自分は左右の窓一面に輝くすさまじい日の光、物干台に飜る浴衣の白さの間に、寝転んで下から見上げると、いかにも高くいかにも能く澄んだ真夏の真昼の青空の色をも、今だに忘れず記憶している…… これもやはりそういう真夏の日盛り、自分は倉・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・室にはびこる夜を呑んで、一枚の衣に真昼の日影を集めたる如く鮮かである。エレーンは衣の領を右手につるして、暫らくは眩ゆきものと眺めたるが、やがて左に握る短刀を鞘ながら二、三度振る。からからと床に音さして、すわという間に閃きは目を掠めて紅深きう・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・―― 稚かった自分に全然解らなかった生活の力が、お千代ちゃんを動かしていたことを理解し、由子は、高燥な夏の真昼の樟の香が鼻にしみるような心持になった。 由子は遠く山巓に湧き出した白雲を見ながら、静かに心の中で愛する紅玉色の硝子玉を撫・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
・・・ 鶏裏の小屋の鶏真昼 けたたましい声をあげる。昨日も、おとといも 又さきおとといも私は部屋から声をきいた。然し、何と云う いやな音。雀は勿論 彼等は電車より厭な声を出す。濁り、限られ、さも苦・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・ 処が、只さえ万物を乾き、美しくなく見せる残暑の真昼の中で俥から下りると、自分は、殆ど、一種の極り悪さを感じる程、家は小さく、穢く異様に見えた。 武岳と云う医者の横と、葉茶屋の横との、三尺ばかりの曲り口も、如何にも貧弱に、裏店と云う・・・ 宮本百合子 「小さき家の生活」
・・・二人は手を握りあってしずかな真昼の空気の中にひたって居た。「あのネ、おたえちゃん、私が若し帰るとすると帰る日なんか前っからきまった方がいい、それともその前の日ぐらい急にきいた方がいい、どちら?」何でもなさそうな様子で私はたずねた。「そうやな・・・ 宮本百合子 「ひな勇はん」
・・・ 二人は真昼に街道を歩いて、夜は所々の寺に泊った。山城の朱雀野に来て、律師は権現堂に休んで、厨子王に別れた。「守本尊を大切にして往け。父母の消息はきっと知れる」と言い聞かせて、律師は踵を旋した。亡くなった姉と同じことを言う坊様だと、厨子・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫