・・・そうして宅へ帰ったら瓦が二、三枚落ちて壁土が少しこぼれていたが、庭の葉鶏頭はおよそ天下に何事もなかったように真紅の葉を紺碧の空の光の下に耀かしていたことであった。しかしその時刻にはもうあの恐ろしい前代未聞の火事の渦巻が下町一帯に拡がりつつあ・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・そうして宅へ帰ったら瓦が二三枚落ちて壁土が少しこぼれていたが、庭の葉鶏頭はおよそ天下に何事もなかったように真紅の葉を紺碧の空の光の下にかがやかしていたことであった。しかしその時刻にはもうあの恐ろしい前代未聞の火事の渦巻が下町一帯に広がりつつ・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・燭にすかせば燃ゆる真紅の色なり。室にはびこる夜を呑んで、一枚の衣に真昼の日影を集めたる如く鮮かである。エレーンは衣の領を右手につるして、暫らくは眩ゆきものと眺めたるが、やがて左に握る短刀を鞘ながら二、三度振る。からからと床に音さして、すわと・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 心は真紅の焔を吐く。 昼過――監獄の飯は早いのだ――強震あり。全被告、声を合せ、涙を垂れて、開扉を頼んだが、看守はいつも頻繁に巡るのに、今は更に姿を見せない。私は扉に打つかった。私はまた体を一つのハンマーの如くにして、隣房との・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・ 又、義母はんが、何か、やな事云うてやな、 ほんにあかん。 栄蔵は、娘の言葉が、胸の中にスーと暖くしみ込んで行く様に感じた。 新聞を畳んで、栄蔵は買って来た花の鉢をのせた。 真紅な冬咲きの小さいバラの花が二三輪香りも・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・まわりを房々だした束髪で、真紅な表のフェルト草履を踏んで行くのだが――それだけで充分さらりと浴衣がけの人中では目立つのに、彼女は、まるで妙な歩きつきをしていた。そんなけばけばしいなりをしながら、片手で左わきの膝の上で着物を抓み上げ持ち上った・・・ 宮本百合子 「茶色っぽい町」
・・・はっきりした茶色の幹を輝かして立って居る一群の木々の間からは真紅の小さい葉どもがチラチラして、その奥の奥からはチチチチチ、チチチチチと云う小鳥の声があっちにゆったり落着いて居る山の方まで響いて行く。 私は歓びと驚きで胸が張ち切れそうにな・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・艶めかしい紅蓮の群落から出て行ってこの白蓮の群落へ入って行ったためにそう感じたのであるとは私は考えない。真紅の紅蓮が艶めかし過ぎて閉口であるように、純粋の白蓮もまた冷たすぎ堅すぎておもしろくない。やはり白色に淡紅色のかかっているような普通の・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
・・・が、しばらくの間この群落のなかを進んで行って、そういう気分に慣れたあとであったにかかわらず、次いで突入して行った深紅の紅蓮の群落には、われわれはまたあっと驚いた。この紅蓮は花びらの全面が濃い紅色なのであって、白い部分は毛ほども残っていない。・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
・・・それから櫨のような真紅な色になる葉との間に、実にさまざまな段階、さまざまな種類がある。それが大きい樹にも見られれば、下草の小さい木にも見られる。 私が初めて東山の若王子神社の裏に住み込んだのは、九月の上旬であったが、一月あまりたってよう・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫