・・・朝夕わたくしはその眺望をよろこび見るのみならず、時を定めず杖をひくことにしている。桃や梨を栽培した畠の藪垣、羊の草をはんでいる道のほとり。いずこもわたくしの腰を休めて、時には書を読む処にならざるはない。 真間川の水は絶えず東へ東へと流れ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 自分は折々天下堂の三階の屋根裏に上って都会の眺望を楽しんだ。山崎洋服店の裁縫師でもなく、天賞堂の店員でもないわれわれが、銀座界隈の鳥瞰図を楽もうとすれば、この天下堂の梯子段を上るのが一番軽便な手段である。茲まで高く上って見ると、東・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・玉蜀黍の茎は倒れて見通す稲田の眺望は軟かに黄ばんで来た。いつの日にか、わたくしは再び妙林寺の松山に鳶の鳴声をきき得るのであろう。今ごろ備中総社の町の人たちは裏山の茸狩に、秋晴の日の短きを歎いているにちがいない。三門の町を流れる溝川の水も物洗・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・道皆海に沿うたる断崖の上にありて眺望いわん方なし。 浪ぎはへ蔦はひ下りる十余丈 根府川近辺は蜜柑の名所なり。 皮剥けば青けむり立つ蜜柑かな 石橋山の麓を過ぐ頼朝の隠れし処もかなたの山にありと人のいえど日已に傾むきかか・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・この辺の両側の眺望はちっとも昔と変らないヨ。こんな煉瓦もあったヨ。こんな庭もあったヨ。松が四、五本よろよろとして一面に木賊が植えてある、爰処だ爰処だ、イヤ主人が茶をたてているヨ、お目出とう、聞こやしないや。ここは山北だ。おいおい鮎の鮓はない・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・海に、面して眺望絶佳なところに床まで大理石ばりの壮大な離宮がある。それが今は農民のための療養所で、集団農場から休養にやって来ている連中が、楽しそうに芝生の上にころがって海の風に当っていた。 農村のために映画館を二万五千にふやしラジオは十・・・ 宮本百合子 「今にわれらも」
・・・ もとの市中をぬけると、砲台のあったぐるりの山々までいかにも打ちひらいた眺望である。数哩へだたった山々はゆるやかな起伏をもってうっすりと、あったまった大気の中に連っているのであるが、昔山々と市街との間をつないでいた村落や田園は片影をとど・・・ 宮本百合子 「女靴の跡」
・・・下から多勢の遊山客がのぼって来るが、急なその坂道は、眺望のよいのにかかわらず、いかにも辷りやすい。広業寺のもちものだから、横木を入れれば余程楽しるのに。十本も入れてくれれば、何ぼいいかしんないのにねえ、と、山の茶屋のお内儀が話した。でも、尼・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
・・・花の咲かない躑躅の植込みの前にベンチがあり、彼等が行ったとき、そう若くない夫婦がかけていい心地そうに目前の眺望に向っていた。桃龍は、着物の裾を両方の脚に巻きつけるような工合にして暫く亭にかけていたが、やがて、「えろ仲よそうにしてはる、ち・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・後にそれを買い潰して、崖の下に長い柱を立てて、私の家と軒が相対するような二階家の広いのを建てたものがある。眺望の好かった私の家は、その二階家が出来たために、陰気な住いになった。安国寺さんの来たのは、この二階造の下宿屋である。 しかし東京・・・ 森鴎外 「二人の友」
出典:青空文庫