・・・が、これは思わず彼が手を伸ばして、捉えようとする間もなく、眼界から消えてしまった。消える時に見ると、裙子は紗のように薄くなって、その向うにある雲の塊を、雲母のように透かせている。 その後からは、彼の生まれた家の後にある、だだっ広い胡麻畑・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・そうして、それとほとんど同時に、第二の私は丁度硝子に亀裂の入るような早さで、見る間に私の眼界から消え去ってしまいました。私は、夢遊病患者のように、茫然として妻に近づきました。が、妻には、第二の私が眼に映じなかったのでございましょう。私が側へ・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・ひとたび歩を急にせんか、八田は疾に渠らを通り越し得たりしならん、あるいはことさらに歩をゆるうせんか、眼界の外に渠らを送遣し得たりしならん。されども渠はその職掌を堅守するため、自家が確定せし平時における一式の法則あり。交番を出でて幾曲がりの道・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ 一歳初夏の頃より、このあたりを徘徊せる、世にも忌わしき乞食僧あり、その何処より来りしやを知らず、忽然黒壁に住める人の眼界に顕れしが、殆ど湿地に蛆を生ずる如く、自然に湧き出でたるやの観ありき。乞食僧はその年紀三十四五なるべし。寸々に裂け・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・卑近な眼界からヨリ遠い人間生活の視野を望ましめるものでなくてはならぬ。此の力を欠いているものは謂わゆる現実性を欠いた芸術である。現実性のある文芸のみが、民衆の文芸として生き得るであろう。此人生や自然はどんな人にも感激を与え慰藉を与えまた苦痛・・・ 小川未明 「囚われたる現文壇」
・・・ そこを過ぎると道は切り立った崖を曲がって、突如ひろびろとした展望のなかへ出る。眼界というものがこうも人の心を変えてしまうものだろうか。そこへ来ると私はいつも今が今まで私の心を占めていた煮え切らない考えを振るい落としてしまったように感じ・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・そして、ついには蟻のようになり、とうとう眼界から消えてしまった。 九 雪の曠野は、大洋のようにはてしがなかった。 山が雪に包まれて遠くに存在している。しかし、行っても行っても、その山は同じ大きさで、同じ位置に・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・堤の桜わずか二三株ほど眼界に入っていた。 土耳古帽は堤畔の草に腰を下して休んだ。二合余も入りそうな瓢にスカリのかかっているのを傍に置き、袂から白い巾に包んだ赤楽の馬上杯を取出し、一度拭ってから落ちついて独酌した。鼠股引の先生は二ツ折にし・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・あの小さな黒い林が、われわれの眼界をさえぎっている。あれは杉の林だ。あのなかには、お稲荷をまつった社がある。林の裾のぽっと明るいところは、菜の花畠であって、それにつづいて手前のほうに百坪ほどの空地が見える。龍という緑の文字が書かれてある紙凧・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・ けれどもこの時の兄の叱咤は、非常に役に立った。眼界が、ひらけた。何百年、何千年経っても不滅の名を歴史に残しているほどの人物は、私たちには容易に推量できないくらいに、けたはずれの神品に違いない。羽左衛門の義経を見てやさしい色白の義経を胸・・・ 太宰治 「鉄面皮」
出典:青空文庫