・・・ と矢声を懸けて、潮を射て駈けるがごとく、水の声が聞きなさるる。と見ると、竜宮の松火を灯したように、彼の身体がどんよりと光を放った。 白い炎が、影もなく橋にぴたりと寄せた時、水が穂に被るばかりに見えた。 ぴたぴたと板・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・つ七折ばかり、繋いで掛け、雲の桟に似た石段を――麓の旅籠屋で、かき玉の椀に、きざみ昆布のつくだ煮か、それはいい、あろう事か、朝酒を煽りつけた勢で、通しの夜汽車で、疲れたのを顧みず――時も八月、極暑に、矢声を掛けて駆昇った事がある。…… ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・表の通りでは砂利をかんで勢いよく駈ける人車の矢声も聞える。晴れきった空からは、かすかな、そして長閑な世間のどよめきが聞えて来る。それを自分だけが陰気な穴の中で聞いているような気がする。何処か遊びに行ってみたい。行かれぬのでなおそう思う。田端・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
出典:青空文庫