・・・ 渠が寝られぬ短夜に……疲れて、寝忘れて遅く起きると、祖母の影が見えぬ…… 枕頭の障子の陰に、朝の膳ごしらえが、ちゃんと出来ていたのを見て、水を浴びたように肝まで寒くした。――大川も堀も近い。……ついぞ愚痴などを言った事のない祖母だ・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・この、好色の豪族は、疾く雨乞の験なしと見て取ると、日の昨の、短夜もはや半ばなりし紗の蚊帳の裡を想い出した。…… 雨乞のためとて、精進潔斎させられたのであるから。「漕げ。」 紫幕の船は、矢を射るように島へ走る。 一度、駆下りよ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・外套氏のいう処では、道の途中ぐらい、麓の出張った低い磧の岸に、むしろがこいの掘立小屋が三つばかり簗の崩れたようなのがあって、古俳句の――短夜や川手水――がそっくり想出された。そこが、野三昧の跡とも、山窩が甘い水を慕って出て来るともいう。人の・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ 夏の短夜は、やがて明け初めて来た。が、寿子は依然として弾いている。蚊帳の中の庄之助は鉛のような沈黙を守っている。余りだまっているので、寿子は、父はもう眠ってしまったのかも知れぬと、思った。が、それでも弾いていると、いきなり、「出来・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・ そこで文公はやっと宿を得て、二人の足のすそに丸くなった。親父も弁公も昼間の激しい労働で熟睡したが文公は熱と咳とで終夜苦しめられ、明け方近くなってやっと寝入った。 短夜の明けやすく、四時半には弁公引き窓をあけて飯をたきはじめた。親父・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・夏の短夜が間もなく明けると、もう荷車が通りはじめる。ごろごろがたがた絶え間がない。九時十時となると、蝉が往来から見える高い梢で鳴きだす、だんだん暑くなる。砂埃が馬の蹄、車の轍に煽られて虚空に舞い上がる。蝿の群が往来を横ぎって家から家、馬から・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・「短夜だ」 と呟いて、復た相川は蚊帳の内へ入った。 翌日、原は午前のうちに訪ねて来た。相川の家族はかわるがわる出て、この珍客を款待した。七歳になる可愛らしい女の児を始め、四人の子供はめずらしそうに、この髭の叔父さんを囲繞いた。・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・裁判所だか海軍省だかの煉瓦を背景にした、まだ短夜の眠りのさめ切らぬような柳の梢に強い画趣の誘惑を感じたので、よほど思い切って画架を立てようかと思っていると、もうそこらを歩いている人が意地悪く此方へ足を向け始めるような気がする。ゴーゴルか誰か・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・第一、部分と全体とが仲違いをして音信不通の体である。短夜の明け方の夢よりもつかまえどころのない絵であると思った。そういう絵が院展に限らず日本画展覧会には通有である。一体日本画というものが本質的にそういうものなのか。つまり日本画というものはこ・・・ 寺田寅彦 「二科展院展急行瞥見記」
ただ取り止めもつかぬ短夜の物語である。 毎年夏始めに、程近い植物園からこのわたりへかけ、一体の若葉の梢が茂り黒み、情ない空風が遠い街の塵を揚げて森の香の清い此処らまでも吹き込んで来る頃になると、定まったように脳の工合が・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
出典:青空文庫