・・・K君は外套の襟を立てたまま、この頃先生の短尺を一枚やっと手に入れた話などをしていた。 すると富士前を通り越した頃、電車の中ほどの電球が一つ、偶然抜け落ちてこなごなになった。そこには顔も身なりも悪い二十四五の女が一人、片手に大きい包を持ち・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・色紙、短冊でも並びそうな、おさらいや場末の寄席気分とは、さすが品の違った座をすすめてくれたが、裾模様、背広連が、多くその席を占めて、切髪の後室も二人ばかり、白襟で控えて、金泥、銀地の舞扇まで開いている。 われら式、……いや、もうここで結・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・南の裏庭広く、物置きや板倉が縦に母屋に続いて、短冊形に長めな地なりだ。裏の行きとまりに低い珊瑚樹の生垣、中ほどに形ばかりの枝折戸、枝折戸の外は三尺ばかりの流れに一枚板の小橋を渡して広い田圃を見晴らすのである。左右の隣家は椎森の中に萱屋根が見・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・天居が去年の夏、複製して暑中見舞として知人に頒った椿岳の画短冊は劫火の中から辛うじて拾い出された椿岳蒐集の記念の片影であった。 が、椿岳の最も勝れた蒐集が烏有に帰したといっても遺作はマダ散在している。椿岳の傑作の多くは下町に所蔵されてい・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・殊に短冊へ書くのが大嫌いで、日夕親炙したものの求めにさえ短冊の揮毫は固く拒絶した。何でも短冊は僅か五、六枚ぐらいしか書かなかったろうという評判で、短冊蒐集家の中には鴎外の短冊を懸賞したものもあるが獲られなかった。 日露戦役後、度々部下の・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・なるほどなるほどと自分は感心して、小短冊位の大きさにそれを断って、そして有合せの味噌をその杓子の背で五厘か七厘ほど、一分とはならぬ厚さに均して塗りつけた。妻と婢とは黙って笑って見ていた。今度からは汝達にしてもらう、おぼえておけ、と云いながら・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・店の軒には、青や赤の短冊に、歌か俳句か書き散らしたのが、隙間もなく下がって風にあおられている。こう云う不思議な店へこんな物を買いに来る人があるかと怪しんだが、実際そう云う御客は一度も見た事がなかった。それにもかかわらず店はいつでも飾られてい・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・草花に処々釣り下げたる短冊既に面白からぬにその裏を見れば鬼ころしの広告ずり嘔吐を催すばかりなり。秋草には束髪の美人を聯想すなど考えながらこゝを出でたり。腹痛ようやく止む。鐘が淵紡績の煙突草後に聳え、右に白きは大学のボートハウスなるべし、端艇・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・多勢短冊も書いてもらいましたし」「おれも金があると、資本ぐらい少し助けてもいいんだが、金に縁のない方で」 お絹は微笑していた。「あんたももう二三年やろがいに」「そうかもしれない」「私も大阪へ行きさえすれば、こんなことして・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・世にはまた色紙短冊のたぐいに揮毫を求める好事家があるが、その人たちが悉く書画を愛するものとは言われない。 祖国の自然がその国に生れた人たちから飽かれるようになるのも、これを要するに、運命の為すところだと見ねばなるまい。わたくしは何物にも・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫