・・・そこへ客か何か来たのであろう、鶴よりも年上の女中が一人、湯気の立ちこめた硝子障子をあけると、石鹸だらけになっていた父へ旦那様何とかと声をかけた。父は海綿を使ったまま、「よし、今行く」と返事をした。それからまた保吉へ顔を見せながら、「お前はま・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・それが濡手拭と石鹸の箱とをそっと胸へ抱くようにして、何が怖いのか、往来の右左へ心配そうな眼をくばりましたが、すぐに新蔵の姿を見つけたのでしょう。まだ気づかわしそうな眼でほほ笑むと、つと蓮葉に男の側へ歩み寄って、「長い事御待たせ申しまして。」・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・今後私の生活がいかように変わろうとも、私は結局在来の支配階級者の所産であるに相違ないことは、黒人種がいくら石鹸で洗い立てられても、黒人種たるを失わないのと同様であるだろう。したがって私の仕事は第四階級者以外の人々に訴える仕事として始終するほ・・・ 有島武郎 「宣言一つ」
・・・そういう心持は、自分自身のその現在に全く没頭しているのであるから、世の中にこれ位性急な(同時に、石鹸玉心持はない。……そういう心持が、善いとも、又、悪いとも言うのではない。が、そういう心持になった際に、当然気が付かなければならないところの、・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・フッフッ、カタカタカタと毛を吹くばかりの呼吸づかいに連れて、五つ七つたちどころに、パッパッと石鹸玉が消えるように、上手にでんぐり、くるりと落ちる。 落ちると、片端から一ツ一ツ、順々にまた並べて、初手からフッと吹いて、カタリといわせる。…・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・「白粉や香水も売っていて、鑵詰だの、石鹸箱はぴかぴかするけど、じめじめとした、陰気な、あれかあね。」「全くだ、陰気な内だ。」 と言って客は考えた。「それは、旦那さん――あ、あ、あ、何屋とか言ったがね、忘れたよ。口まで出るけど・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・気がつかずにいたが、毎度風呂の中で出くわす男で、石鹸を女湯の方から貰って使うのがあって、僕はいつも厭な、にやけた奴だと思っていた。それが一度向うからあまり女らしくもない手が出て、「旦那、しゃぼん」という声が聴えると、てッきり吉弥の声であ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・当座の中こそ訪問や見物に忙がしく、夙昔の志望たる日露の問題に気焔を吐きもしようし努力もするだろうが、暫らくしたら多年の抱懐や計画や野心や宿望が総て石鹸玉の泡のように消えてしまって索然とするだろう。欧洲戦が初まる前までどころか、恐らく二、三年・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・中風で寝ている父親に代って柳吉が切り廻している商売というのが、理髪店向きの石鹸、クリーム、チック、ポマード、美顔水、ふけとりなどの卸問屋であると聞いて、散髪屋へ顔を剃りに行っても、其店で使っている化粧品のマークに気をつけるようになった。ある・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・華車な骨に石鹸玉のような薄い羽根を張った、身体の小さい昆虫に、よくあんな高い音が出せるものだと、驚きながら見ていた。その高い音と関係があると言えば、ただその腹から尻尾へかけての伸縮であった。柔毛の密生している、節を持った、その部分は、まるで・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫