・・・たためて、私と、それからもう一人、道づれの、その、同行の相手は、姿見えぬ人、うなだれつつ、わが背後にしずかにつきしたがえるもの、水の精、嫋々の影、唇赤き少年か、鼠いろの明石着たる四十のマダムか、レモン石鹸にて全身の油を洗い流して清浄の、やわ・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・ むごたらしい人間の私は、三毛がこの防腐剤にまみれた足と子猫で家じゅうの畳をよごしあるく事に何よりも当惑したので、すぐに三毛をかかえて風呂場にはいって石鹸で洗滌を始めたが、このねばねばした油が密生した毛の中に滲透したのはなかなか容易には・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・ある一つの大きな台に積上げた品物を何かとよく見るとそれがことごとく石鹸の箱入りであった。 売店で煙草を買っていると、隣の喫茶室で電話をかけている女の声が聞こえる。「猫のオルガン六つですか」と何遍も駄目をおしている。「猫のオルガン」が何の・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・土人の中には大きな石鹸のような格好をした琥珀を二つ、布切れに貫ぬいたのを首にかけたのがいた。やはり土人の巡査が、赤帽を着て足にはサンダルをはき、鞭をもって甲板に押し上がろうとする商人を制していた。 一時に出帆。昨夜電扇が止まって暑くて寝・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ 自分の経験では金だらいの縁がひどく油あかでよごれているときは鳴らない。石鹸で一応洗った時によく鳴るようである。しかし絶対に油脂を除去するのは簡単にはできないので、その場合にどうなるかは不明である。 この場合に油膜の存在と摩擦の関係・・・ 寺田寅彦 「日常身辺の物理的諸問題」
・・・けれども、あの日台所で燻い竈の前にかがみ、インフレーションの苦しい家事をやりくって、石鹸のない洗濯物をしていた主婦のためには、新憲法のその精神がはっきり具体化されたような変化はなかった。今日は男も女も、それが地みちの生活をしている人であるな・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
・・・ 愛が風呂場で石鹸箱をタウルに包んで居る間に、禎一は二階へ蟇口をとりに登った。彼は軈て、ドタドタ勢よく階子をかけ降りざま、玄関に出た。「小銭がなあいよ」 愛は、「偉い元気!」と笑い乍ら、茶箪笥の横にあった筈の自分の銀貨入・・・ 宮本百合子 「斯ういう気持」
・・・それが洗濯石鹸になった。同志丹野その他の前衛が入れられてから、そういう人々は、人間の体を洗うに洗濯石鹸という法があるかと、自分達の使う石鹸を風呂場に残しておいて皆に使わして呉れ、と要求して、今では花王石鹸が入っているのだそうだ。 そうい・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・砂糖はパン、肉、茶、石鹸、石油などと一緒に人別手帳によって一ヵ月に一キロ半買うことができる。けれども、かたまりが大きくてそのまま茶のコップには入れられない。胡桃割は割るべき胡桃とともに今モスクワじゅうの金物屋から姿を消しているから、ホテルの・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・湯で顔を洗う。石鹸は七十銭位の舶来品を使っている。何故そんな贅沢をするかと人が問うと、石鹸は石鹸でなくてはいけない、贋物を使う位なら使わないと云っている。五分刈頭を洗う。それから裸になって体じゅうを丁寧に揩く。同じ金盥で下湯を使う。足を洗う・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫