・・・その寂寞を破るものは、ニスのにおいのする戸の向うから、時々ここへ聞えて来る、かすかなタイプライタアの音だけであった。 書類が一山片づいた後、陳はふと何か思い出したように、卓上電話の受話器を耳へ当てた。「私の家へかけてくれ給え。」・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・たとい君は同じ屏風の、犬を曳いた甲比丹や、日傘をさしかけた黒ん坊の子供と、忘却の眠に沈んでいても、新たに水平へ現れた、我々の黒船の石火矢の音は、必ず古めかしい君等の夢を破る時があるに違いない。それまでは、――さようなら。パアドレ・オルガンテ・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・ほれ、こりゃ、破ると、中が真黒けで、うじゃうじゃと蛆のような筋のある(狐の睾丸じゃがいの。」「旦那、眉毛に唾なとつけっしゃれい。」「えろう、女狐に魅まれたなあ。」「これ、この合羽占地茸はな、野郎の鼻毛が伸びたのじゃぞいな。」・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ ト竹を破るような声で、と言う。ぬいと出て脚許へ、五つ六つの猿が届いた。赤い雲を捲いたようにな、源助。」「…………」小使は口も利かず。「その時、旗を衝と上げて、と云うと、上げたその旗を横に、飜然と返して、指したと思えば、・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・一家にしても、その家に一人の不精ものがあれば、そのためにほとんど家庭の平和を破るのである。そのかわりに、一家手ぞろいで働くという時などには随分はげしき労働も見るほどに苦しいものではない。朝夕忙しく、水門が白むと共に起き、三つ星の西に傾くまで・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・お互に心持は奥底まで解っているのだから、吉野紙を突破るほどにも力がありさえすれば、話の一歩を進めてお互に明放してしまうことが出来るのである。しかしながら真底からおぼこな二人は、その吉野紙を破るほどの押がないのである。またここで話の皮を切って・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ しかし、僕も男だ、体面上、一度約束したことを破る気はない。もう、人を頼まず、自分が自分でその場に全責任をしょうよりほかはない。 こうなると、自分に最も手近な家から探ぐって行かなければならない。で、僕は妻に手紙を書き、家の物を質に入・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・また、送っていただいて、破るといけないから、どうか、もう送らないでください。」と、書いてありました。「そんなに、あんな雑誌がめずらしいのかなあ。」 三郎さんは、活動もなければ、りっぱな店もない、電車もなければ、自動車も通らない、にぎ・・・ 小川未明 「おかめどんぐり」
・・・そして今もし突如この平衡を破るものが現われたら自分はどうなるかしれないということを思っていた。だから吉田の頭には地震とか火事とか一生に一度遭うか二度遭うかというようなものまでが真剣に写っているのだった。また吉田がこの状態を続けてゆくというの・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・年上の子、先に立ちてこれらに火をうつせば、童らは丸く火を取りまきて立ち、竹の節の破るる音を今か今かと待てり。されど燃ゆるは枯草のみ。燃えては消えぬ。煙のみいたずらにたちのぼりて木にも竹にも火はたやすく燃えつかず。鏡のわくはわずかに焦げ、丸太・・・ 国木田独歩 「たき火」
出典:青空文庫