・・・そうしてその多くの人々に代わって、先生につつがなき航海と、穏やかな余生とを、心から祈るのである。 夏目漱石 「ケーベル先生の告別」
・・・自重健闘を祈る。―― 吉田は、紙切れに鉛筆で走り書きをして、母に渡した。「これを依田君に渡して下さい。私はちょっと行って来ますから。心配しないで下さいね。大丈夫だから」 老母の眼からは、涙が落ちた。 吉田は胸が痛かった。・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・夫にして仮初にも人情あらば、離縁は扨置き厚く看護して、仮令い全快に至らざるも其軽快を祈るこそ人間の道なれ。若しも妻の不幸に反して夫が癩病に罹りたらば如何せん。妻は之を見棄てゝ颯々と家を去る可きや。我輩に於ては甚だ不同意なり。否な記者先生も或・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ 今日は時勢もちがい、かかる奇話あるべきようもなしといえども、もしも幸にして学事会の設立もあらば、その権力は昔日の林家の如くならんこと、我が輩の祈るところなり。また、学事会なるものが、かく文事の一方について全権を有するその代りには、これ・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・ 烏の大尉はこちらで、その姿勢を直すはねの音から、そのマジエルを祈る声まですっかり聴いて居りました。 じぶんもまたためいきをついて、そのうつくしい七つのマジエルの星を仰ぎながら、ああ、あしたの戦でわたくしが勝つことがいいのか、山烏が・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
・・・ 青年が祈るようにそう答えました。 そしてあの姉弟はもうつかれてめいめいぐったり席によりかかって睡っていました。さっきのあのはだしだった足にはいつか白い柔らかな靴をはいていたのです。 ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光の川の・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ 私は、有島氏の死が、どうか自分の浮々した、弱さに満ちた魂を守り力づけて、どんどん芸術家としての道に進ませてくれることを祈る。 私は、心の奥では彼を愛して居たと云ってよいだろう。それ故にこそ、彼より、芸術に於て*で、彼を死なせた・・・ 宮本百合子 「有島武郎の死によせて」
・・・いま公判がひらかれている吉村隊長が、外蒙の日本人捕虜収容所のボスとして行った残虐と背徳行為が社会問題化したのは、「暁に祈る」という怪奇なテーマをもつ記録文学がいくとおりか発表され、輿論の注目をひいたためであった。現地の軍当局の信じられないほ・・・ 宮本百合子 「ことの真実」
・・・ 一行は松坂を立って、武運を祈るために参宮した。それから関を経て、東海道を摂津国大阪に出て、ここに二十三日を費した。その間に松坂から便があって、紀州の定右衛門が伜の行末を心配して、気病で亡くなったと云う事を聞いた。それから西宮、兵庫を経・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・氏が『竹取物語』のごとき邪路に入らずに、ますます自己に忠実な画の製作に努められんことを祈る。 例外の二は川端龍子氏の『土』である。日本絵の具をもって西洋画のごとき写実ができないはずはない――この事実を氏は実証しようとしているかに見える。・・・ 和辻哲郎 「院展日本画所感」
出典:青空文庫