・・・めませんでしたが、その内にまた誰かに見つめられているような、気味の悪い心もちが自然に強くなり出したので、こんな吊皮の下に坐っているのが、いけないのだろうと思いましたから、向う側の隅にある空席へわざわざ移りました。移って、ふと上を見ると、今ま・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・その友は二人分の手荷物を抱えて、学生は例の厄介者を世話して、艀に移りぬ。 艀は鎖を解きて本船と別るる時、乗客は再び観音丸と船長との万歳を唱えぬ。甲板に立てる船長は帽を脱して、満面に微笑を湛えつつ答礼せり。艀は漕出したり。陸を去る僅に三町・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・ 霊廟の土の瘧を落し、秘符の威徳の鬼を追うよう、たちどころに坊主の虫歯を癒したはさることながら、路々も悪臭さの消えないばかりか、口中の臭気は、次第に持つ手を伝って、袖にも移りそうに思われる。 紫玉は、樹の下に涼傘を畳んで、滝を斜めに・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・もし芥種のごとき信仰あらば、この山に移りてここよりかしこに移れと命うとも、かならず移らん、また汝らに能わざることなかるべしとイエスはいいたまいました。またおおよそ神によりて生まるる者は世に勝つ、われらをして世に勝たし・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
秋という字の下に心をつけて、愁と読ませるのは、誰がそうしたのか、いみじくも考えたと思う。まことにもの想う人は、季節の移りかわりを敏感に感ずるなかにも、わけていわゆる秋のけはいの立ちそめるのを、ひと一倍しみじみと感ずることであろう。・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・ 浜子がいなくなって間もなく、一家はすぐ笠屋町へ移りました。周防町筋を半町ばかり南へはいった東側に路地があります。その路地の一番奥にある南向きの家でした。鰻の寝床みたいな狭い路地だったけれど、しかしその辺は宗右衛門町の色町に近かったから・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・同姓間の家運の移り変りが、寺へ来てみると明瞭であった。 最後まで残った私と弟、妻の父、妻と娘たちとの六人は、停車場まで自動車で送られ、待合室で彼女たちと別れて、彼女たちとは反対の方角の二つ目の駅のOという温泉場へ下りた。「やれやれ、・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・ すばしこく枝移りする小鳥のような不定さは私をいらだたせた。蜃気楼のようなはかなさは私を切なくした。そして深祕はだんだん深まってゆくのだった。私に課せられている暗鬱な周囲のなかで、やがてそれは幻聴のように鳴りはじめた。束の間の閃光が私の・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・に「スットコチーヨ」「スットコチーヨ」になって「ジー」と鳴きやんでしまう。中途に横から「チュクチュク」とはじめるのが出て来る。するとまた一つのは「スットコチーヨ」を終わって「ジー」に移りかけている。三重四重、五重にも六重にも重なって鳴いてい・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・たわいもなき浮世咄より、面白き流行のことに移り、芝居に飛び音楽に行きて、ある限りさまざまに心を尽しぬ。光代はただ受答えの返事ばかり、進んで口を開かんともせず。 妙なことを白状しましょうか。と辰弥は微笑みて、私はあなたの琴を、この間の那須・・・ 川上眉山 「書記官」
出典:青空文庫