・・・夜が次第に更けて来るというのに、会える当てもなさそうな夫をそうやっていつまでも待っている積りだろうか。諦めて帰る気にもなれないのは、よほど会わねばならぬ用事があるのだろうか。それとも、来いと言う夫の命令に素直に従っているのだろうか。 電・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・「君よりは少しばかり多智な積りでいたが。」「僕の聞いたのは其円じゃアないんだ。縁だ。」「だから円だろう。」「イヤこれは僕が悪かった、君に向って発すべき問ではなかったかも知れない。まア静かに聞き給え、僕の問うたのは……」「・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・「午後私が廻る積りです」 升屋の老人は去り、自分は百円の紙包を机の抽斗に入れた。 五月九日 自分は五年前の事を書いているのである。十月二十五日の事を書いているのである。厭になって了った。書きたくない。 けれども書く、酒を・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 風に吹きつけられた雪が、窓硝子を押し破りそうに積りかかっていた。谷間の泉から湧き出る水は、その周囲に凍てついて、氷の岩が出来ていた。それが、丁度、地下から突き出て来るように、一昨日よりは昨日、昨日よりは今日の方がより高くもれ上って来た・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・併し、彼は最善を尽して、よう/\二千円たまったが、それ以上はどうしても積りそうになかった。そしてもう彼は人生の下り坂をよほどすぎて、精力も衰え働けなくなって来たのを自ら感じていた。十六からこちらへの経験によると、彼が困難な労働をして僅かずつ・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・ 人民を保護するとか何ンとか、口ではうまい事云って、この大事な息子の身体をこんなことにしてしまって、どうする積りなんだッ! さッ!」特高たちは、あ、又始まったと云って、自分たちの仕事にとりかゝって、見向きもしなかった。 検挙は十二月・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・家の外に溶けた雪が復た積り、顕われた土が復た隠れ、日の光も遠く薄く射すように成れば、二人は子供等と一緒に半ば凍りつめた世界に居た。雲ともつかぬ水蒸気の群は細線の群合のごとく寒い空に懸った。剣のように北側の軒から垂下る長い光った氷柱を眺めて、・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
北村透谷君の事に就ては、これまでに折がある毎に少しずつ自分の意見を発表してあるから、私の見た北村君というものの大体の輪廓は、已に世に紹介した積りである。北村君の生涯の中の晩年の面影だとか、北村君の開こうとした途だとか、そう・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・両足を括って水に漬られているようなもので、幾らわたしが手を働かして泳ぐ積りでも、段々と深みへ這入って、とうとう水底に引き込まれるんだわ。その水底にはお前さんが大きな蟹になって待っていて、鋏でわたしを挟むのだわ。それが今ここにこうしているわた・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・そして、皆は彼女をスバーと呼ぶ代りに、自分丈はスと呼んで、親しい心持を表した積りでいたのです。 スバーは、いつでもタマリンドの下に坐るのがきまりでした。プラタプは少し離れて、釣糸を垂れる。彼は檳榔子を少し持って来ました。スバーが、それを・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
出典:青空文庫