・・・ こないだ地図見たら太平洋の真中があんまり明きすぎてるからあすこへ一杯国を作ってやろうや。 ね、そうしたら随分面白いだろうなあ。 手足をピンピン振り動かして跳ね廻る程面白がり始めました。 遠くの方をながめながら、・・・ 宮本百合子 「小さい子供」
・・・ でもね、私達が小石川に居た所のそばにもう六十位の眼明きの御琴の御師匠さんが居ましてね、 かなり人望があって沢山の御弟子が居るんで『おさらい』だなんて云うと随分はでにしてました。 それがね何でも夏の中頃だと思ってましたけど一晩の・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
・・・ 其の時分は、今私の書斎になって居る陰の多い、庇が長い為に日光が直射する事のない、考えるには真に工合の好い五畳が空き部屋になって居たので、其処がすぐ「お叔父ちゃんのお部屋」に定められて居た。 非常に砂壁の落ちる棚の上だの部屋の周囲に・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・入ったばかりの右側は大きい書物机で、その机と寝台との間には、僅か二畳ばかりの畳の空きがある。その茶色の古畳の上にも、ベッドの上にも机の上にも、竹すだれで遮りきれない午後の西日が夕方まで暑気に燃えていた。その座敷は、目には見えないほこりが焦げ・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・遺物だと云っても、物はもう亡くなって、只空き名が残っているに過ぎない。客観的には元から幽霊は幽霊であったのだが、昔それに無い内容を嘘き入れて、有りそうにした主観までが、今は消え失せてしまっている。怪談だの百物語だのと云うものの全体が、イブセ・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・ここは農夫の客に占められたりしがようやく明きしなり。隣の間に鬚美しき男あり、あたりを憚らず声高に物語するを聞くに、二言三言の中に必ず県庁という。またそれがこの地のさだめかという代りに「それがこの鉱泉の憲法か」などいう癖あり。ある時はわが大学・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・これとはうらうえなるは、松井田にて西洋人の乗りしとき、車丁の荷物を持ちはこびたると、松井田より本庄まで汽車のかよわぬ軌道を、洋服きたる人の妻子婢妾にとおらせ、猶飽きたらでか、これを空きたる荷積汽車にのせて人に推させたるなどなりき。渾てこの旅・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・動けば彼の腹は空き始めた。腹が空けば一日十銭では不足である。そこで、彼は蒼ざめた顔をして保護色を求める虫のように、一日丘の青草の中へ坐っていた。日が暮れかかると彼は丘を降りて街の中へ這入って行った。時には彼は工廠の門から疲労の風のように雪崩・・・ 横光利一 「街の底」
出典:青空文庫