・・・ 一座の空気は、内蔵助のこの語と共に、今までの陽気さをなくなして、急に真面目な調子を帯びた。この意味で、会話は、彼の意図通り、方向を転換したと云っても差支えない。が、転換した方向が、果して内蔵助にとって、愉快なものだったかどうかは、自ら・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ 物の枯れてゆく香いが空気の底に澱んで、立木の高みまではい上がっている「つたうるし」の紅葉が黒々と見えるほどに光が薄れていた。シリベシ川の川瀬の昔に揺られて、いたどりの広葉が風もないのに、かさこそと草の中に落ちた。 五、六丁線路を伝・・・ 有島武郎 「親子」
・・・その人々は大人も子供も大人になり掛かった子供も、皆空気と温度と光線とに酔って居る人達で、叫んだり歌を謡ったり笑ったりして居る。 その中でこの犬と初めて近づきになったのは、ふと庭へ走り出た美しい小娘であった。その娘は何でも目に見えるものを・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 我々青年を囲繞する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥の日一日明白・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・まさか、子供を使って、洋刀や空気銃の宣伝をするのではあるまい。 いずれ仔細があるであろう。 ロイドめがねの黒い柄を、耳の尖に、?のように、振向いて運転手が、「どちらですか。」「ええ処で降りるんじゃ。」 と威圧するごとくに・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 秋近き空の色、照りつける三時過ぎの強き日光、すこぶるあついけれども、空気はおのずから澄み渡って、さわやかな風のそよぎがはなはだ心持ちがよい。一台の車にわが子ふたりを乗せ予は後からついてゆく。妹が大きいから後から見ると、どちらが姉か妹か・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・ こう思うと、また、古寺の墓場のように荒廃した胸の中のにおいがして来て、そのくさい空気に、吉弥の姿が時を得顔に浮んで来る。そのなよなよした姿のほほえみが血球となって、僕の血管を循環するのか、僕は筋肉がゆるんで、がッかり疲労し、手も不断よ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・十 椿岳の畸行作さんの家内太夫入門・東京で初めてのピヤノ弾奏者・椿岳名誉の琵琶・山門生活とお堂守・浅草の畸人の一群・椿岳の着物・椿岳の住居・天狗部屋・女道楽・明治初年の廃頽的空気 負け嫌いの椿岳は若い時か・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・それで中庭に籠っている空気は鉛のがする。この辺の家の窓は、五味で茶色に染まっていて、その奥には人影が見えぬのに、女の心では、どこの硝子の背後にも、物珍らしげに、好い気味だというような顔をして、覗いている人があるように感ぜられた。ふと気が付い・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
夏の午後になると風も死んで了った。村の中は、湯に浸されたように空気が烈しい日の光りのためによどんでいる。私は、友達もなく独り座敷に坐って、外のもろこしの葉や、柿の葉に日の光りが照り付けているのを眺めていると、何事もすべて、其の葉に映っ・・・ 小川未明 「感覚の回生」
出典:青空文庫