・・・ ところが寛文七年の春、家中の武芸の仕合があった時、彼は表芸の槍術で、相手になった侍を六人まで突き倒した。その仕合には、越中守綱利自身も、老職一同と共に臨んでいたが、余り甚太夫の槍が見事なので、さらに剣術の仕合をも所望した。甚太夫は竹刀・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・その音を聞きつけて、往来の子供たちはもとより、向こう三軒両隣の窓の中から人々が顔を突き出して何事が起こったかとこっちを見る時、あの子供と二人で皆んなの好奇的な眼でなぶられるのもありがたい役廻りではないと気づかったりして、思ったとおりを実行に・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・とその魚売が笊をひょいと突きつけると、煮染屋の女房が、ずんぐり横肥りに肥った癖に、口の軽い剽軽もので、「買うてやらさい。旦那さん、酒の肴に……はははは、そりゃおいしい、猪の味や。」と大口を開けて笑った。――紳士淑女の方々に高い声では申兼・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・出てからちょっとふり返って見たが、かの女は――分ったのか、分らないのか――突き放されたままの位置で、畳に左の手を突き、その方の袂の端を右の手で口へ持って行った。目は畳に向いていた。 その翌日、午前中に、吉弥の両親はいとま乞いに来た。僕が・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・商売運の目出たい笑名は女運にも果報があって、老の漸く来らんとするころとうとう一の富を突き当てて妙齢の美人を妻とした。 尤も笑名はその時は最早ただの軽焼屋ではなかった。将軍家大奥の台一式の御用を勤めるお台屋の株を買って立派な旦那衆となって・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・その無邪気も、光明も希望も、快活も、やがて奪い去られてしまって、疲れた人として、街頭に突き出される日の、そう遠い未来でないことを感ずることから、涙ぐむのであった。 人間性を信じ、人間に対して絶望をしない私達もいかんともし難い桎梏の前に、・・・ 小川未明 「人間否定か社会肯定か」
・・・ 男は眼鏡を突きあげながら、言った。そして、売店で買物をしていた女の方に向って、「糸枝!」 と、名をよんだ。「はい」 女が来ると、「もう直き、汽車が来るよって、いまのうち挨拶させて貰い」「はい」 女はいきなり・・・ 織田作之助 「秋深き」
一 喬は彼の部屋の窓から寝静まった通りに凝視っていた。起きている窓はなく、深夜の静けさは暈となって街燈のぐるりに集まっていた。固い音が時どきするのは突き当っていく黄金虫の音でもあるらしかった。 そこは入・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・これ、後楯がついていると思って、大分強いなと煙管にちょっと背中を突きて、ははははと独り悦に入る。 光代は向き直りて、父様はなぜそう奥村さんを御贔負になさるの。と不平らしく顔を見る。なぜとはどういう心だ。誉めていいから誉めるのではないか。・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・壁の落つる音ものすごく玉突き場の方にて起これり。ためらいいし人々一斉に駆けいでたり。室に残りしは二郎とわれと岡村のみ、岡村はわが手を堅く握りて立ち二郎は卓のかなたに静かに椅子に倚れり。この時十蔵室の入り口に立ちて、君らは早く逃げたまわずやと・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
出典:青空文庫