・・・雪駄直しは饅頭形の籐笠をかぶり其の紐を顎にかけて結んでいたので顔は見えず、笠の下から顎の先ばかりが突出ているのが何となく気味悪く見られた。着物の裾をからげて浅葱の股引をはき、筒袖の絆纏に、手甲をかけ、履物は草鞋をはかず草履か雪駄かをはいてい・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・電車の通らない頃の九段坂は今よりも嶮しく、暗かったが、片側の人家の灯で、大きなものを背負っている男の唖々子であることは、頤の突出たのと肩の聳えたのと、眼鏡をかけているのとで、すぐに見定められた。「おい、君、何を背負っているんだ。」と声を・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・鼠色した鳩が二、三羽高慢らしく胸を突出して炎天の屋根を歩いていると、荷馬の口へ結びつけた秣桶から麦殻のこぼれ落ちるのを何処から迷って来たのか痩せた鶏が一、二羽、馬の脚の間をば恐る恐る歩きながら啄んでいた。人通は全くない。空気は乾いて緩に凉し・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・門の左の端を眼障にならないように、斜に切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで突出しているのが何となく古風である。鎌倉時代とも思われる。 ところが見ているものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。その中でも車夫が一番多い。辻待をし・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・頭を母の方に向け、両脚を、竹格子の窓に突出した。屋根がトタンだから、風が吹いて雨が靡くとバラバラ、小豆を撒くような音がした。さもなければザッ、ザッ、気味悪くひどい雨音がする。一太は、小学校へ一年行ったぎりで仮名も碌に知らなかった。雑誌などな・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・きくり、とする度に、ぴったりと形に適った鞣皮をぱんぱんにして、踝が突出る。けれども、その位の年頃の女の子はおかしいもので、きく、きく、しながらそのひとは一向かまわず、而も得意で廊下や段々を昇り降りする。私は日向の廊下に腰をかけ、空の乾いた傘・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
・・・石の屋根の下にいら草の繁みをわけて三十本あまり銃剣が地上に突出されたままになっている。ここで隊列を敷いていたフランス兵たちが生きながら瞬間に爆弾の土砂に埋められた。 更に一ヤードほど登った前方の草の間に、金の輪でも落ちているように光を放・・・ 宮本百合子 「女靴の跡」
その家は夏だけ開いた。 冬から春へかけて永い間、そこは北の田舎で特別その数ヵ月は歩調遅く過ぎるのだが、家は裏も表も雨戸を閉めきりだ。屋根に突出した煙の出ぬ細い黒い煙突を打って初冬の霰が降る。積った正月の雪が、竹藪の竹を・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
・・・変に黒い突出たような眼玉をして。三十一日の朝起きるのが苦しかった。無理をして約束の築地の稽古場へゆき一時間半ほど熱心に話をしてくたびれてかえったら悪寒がして熱が四十度ばかり出ました。夜中だったがお医者を呼んだら喉が少し赤いというのでルゴール・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・広々とした七月の空、数間彼方の草原に岬のように突出ている断崖、すべて明快で、呑気な赤帽の存在とともに、異国的風趣さえあった。 鎌倉は、海岸を離れると、山がちなところだ。私にとって鎌倉といえば、海岸より寧ろ幾重にも重なって続く山々――・・・ 宮本百合子 「この夏」
出典:青空文庫