・・・バルザックの逞しいあらくれの手を忘れ、こそこそと小河で手をみそいでばかりいて皮膚の弱くなる潔癖は、立小便すべからずの立札にも似て、百七十一も変名を持ったスタンダールなどが現れたら、気絶してしまうほどの弱い心臓を持ちながら、冷水摩擦で赤くした・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・傍に立札が立ててある。「御嶽教会×××作之」と。 茅屋根の雪は鹿子斑になった。立ちのぼる蒸気は毎日弱ってゆく。 月がいいのである晩行一は戸外を歩いた。地形がいい工合に傾斜を作っている原っぱで、スキー装束をした男が二人、月光を浴び・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・ 進み進みて下影森を過ぎ上影森村というに至るに、秩父二十八番の観音へ詣らんにはここより入るべしと、道のわかれに立札せるあり。二十八番の観音は、その境内にいと深くして奇しき窟あるを以て名高きところなれば、秩父へ来し甲斐には特にも詣らんかと・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・われら巨万の富貴をのぞまず。立て札なき、たった十坪の青草原を! 性愛を恥じるな! 公園の噴水の傍のベンチに於ける、人の眼恥じざる清潔の抱擁と、老教授R氏の閉め切りし閨の中と、その汚濁、果していずれぞや。「男の人が欲しい!」「・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・ちょっと見ると一と息で登れそうな気がするが、上り口の立て札には頂上まで五時間を要し途中一滴の水もないと書いてある。誘惑にはうっかり乗れない。 第一日には頂上までの五分の一だけ登って引返し、第二日目は休息、第三日は五分の二までで引返し、第・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・だから入場するなというような意味の立て札がある。ちょっとしたアイロニーを感じさせる。垣根からのぞくと広々とした緑の海の上にぽつりぽつり白帆のように人影が見える。ゴルフをやらない人間から見ると、ゴルフをやっている人はみんな大貴族か大金持ちのよ・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・子熊のほうはたぶんそのうちに東京の動物園に現われ檻の前の立て札には「従来捕獲されたる白熊の中にて最高緯度の極北において捕獲されたるものなり」といったような説明書がつくことであろう。そのころにはもうあの北氷洋上の惨劇も子熊の記憶からはとうの昔・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・一方には自動車道という大きな立札もある。そこに立って境内を見渡した時に私はかつて経験した覚えのない奇妙な感じに襲われた。 つい近頃友人のうちでケンプェルが日本の事を書いた書物の挿絵を見た中に、京都の清水かどこかの景と称するものがあった。・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 有名な狸小路では到る処投売りの立札が立っていた。三越支店の食堂は満員であった。 月寒の牧場へ行ったら、羊がみんな此方を向いて珍しそうにまじまじと人の顔を見た。羊は朝から晩まで草を食うことより外に用がないように見える。草はいくら食っ・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・浅草の親戚を見舞うことは断念して松住町から御茶の水の方へ上がって行くと、女子高等師範の庭は杏雲堂病院の避難所になっていると立札が読まれる。御茶の水橋は中程の両側が少し崩れただけで残っていたが駿河台は全部焦土であった。明治大学前に黒焦の死体が・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
出典:青空文庫