・・・保吉はそっと立ち聞きすることにした。 第一の毛虫 この教官はいつ蝶になるのだろう? 我々の曾々々祖父の代から、地面の上ばかり這いまわっている。 第二の毛虫 人間は蝶にならないのかも知れない。 第一の毛虫 いや、なることはなるらし・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・そしてそこへ、牢屋から罪人の話し声がつたわって来るような仕かけをさせて、いつもそこへ這入ってじいっと罪人たちの言ってることを立ち聞きしていました。 それから、自分の寝室へは、だれも近づいて来られないように、ぐるりへ大きな溝を掘りめぐらし・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・学校のおつとめからお帰りになって、隣りのお部屋で、私たちの話を立聞きして、ふびんに思い、厳酷の父としては一世一代の狂言したのではなかろうか、と思うことも、ございますが、まさか、そんなこともないでしょうね。父が在世中なれば、問いただすこともで・・・ 太宰治 「葉桜と魔笛」
・・・聞いていました。立聞きして悪いと思ったけど、お前の身が案じられて、それで、…… 知っていたわよう。お母さんは、あの襖の蔭で泣いていらした。あたしには、すぐにわかった。だけどお母さん、あたしの事はもう、ほっといて。あたしはもう、だめな・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・心中者の二人が死ぬ前に話し合った言葉などがさもそばで速記者が立ち聞きでもしていたかのように記録されていたりしたものである。それが近松や黙阿弥張りにおもしろくつづられていたものである。これは実に愉快な読み物であったが、さすがにこのごろはそうい・・・ 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・しかし入口からぽつぽつ出て来る人たちの評判を立聞きすると、「腰巻なんぞ締めていやがる。面白くもねえ。」というのである。小屋掛の様子からどうしてもむかし縁日に出たロクロ首の見世物も同じらしく思われたので、わたくしは入らずにしまった。このエロス・・・ 永井荷風 「裸体談義」
・・・「タペストリの裏で二人の話しを立ち聞きした時は、いっその事止めて帰ろうかと思うた」と低いのが正直に云う。「絞める時、花のような唇がぴりぴりと顫うた」「透き通るような額に紫色の筋が出た」「あの唸った声がまだ耳に付いている」。黒い影が再び黒い夜・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ ―――――――――――――――― 平野町のおばあ様が来て、恐ろしい話をするのを姉娘のいちが立ち聞きをした晩の事である。桂屋の女房はいつも繰り言を言って泣いたあとで出る疲れが出て、ぐっすり寝入った。女房の両わきには、初・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・三郎が立聞きをしたのは、あいにくこの安寿の詞であった。 三郎は弓矢を持って、つと小屋のうちにはいった。「こら。お主たちは逃げる談合をしておるな。逃亡の企てをしたものには烙印をする。それがこの邸の掟じゃ。赤うなった鉄は熱いぞよ。」・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫