・・・四辺を見渡して停止みつおりおり野路を過る人影いつしか霧深き林の奥に消えゆくなどみつめたる、もしなみなみの人ならば鬱陶しとのみ思わんも、かれは然らず、かれが今の心のさまとこの朝の景色とは似通う節あり、霧立ち迷うておぼろにかすむ森のさまは哀れに・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・橋の下から湧き昇る石炭の煙が、時々は先の見えぬほど、橋の上に立ち迷う。これだけは以前に変らぬ眺めであったが、自分の眼は忽ち佃島の彼方から深川へとかけられた一条の長い橋の姿に驚かされた。堤の上の小さい松の並木、橋の上の人影までが、はっきり絵の・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・正月は一年中で日の最も短い寒の中の事で、両国から船に乗り新大橋で上り、六間堀の横町へ来かかる頃には、立迷う夕靄に水辺の町はわけても日の暮れやすく、道端の小家には灯がつき、路地の中からは干物の匂が湧き出で、木橋をわたる人の下駄の音が、場末の町・・・ 永井荷風 「雪の日」
青銅の扉に秘密を閉してもだせる夜の厳さよ!万物はかたずのみて闇に立ち迷う奇蹟をながめ故知らぬ暗示に胸をとどろかす偉なるかな!奇なるかな!生あるものは総てかく低唱しつつ厚き帳のかなた身じろぐ夜の・・・ 宮本百合子 「夜」
出典:青空文庫