・・・あの時は顔色が少し悪いばかりで笑い声さえ常とは変らなかったのに――当人ももうだいぶ好くなったから明日あたりから床を上げましょうとさえ言ったのに――今、眼の前に露子の姿を浮べて見ると――浮べて見るのではない、自然に浮んで来るのだが――頭へ氷嚢・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・自分はひとりで縁鼻へ座ぶとんを運んで、手摺りにもたれながら向こう座敷の明るい電気燈やはでな笑い声を湿っぽい空気の中から遠くうかがってつまらない心持ちをつまらないなりに引きずるような態度で、煙草ばかり吹かしていた。そこへさっきの下女が襖をあけ・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・嘉助は夢中で短い笑い声をあげて、その道をぐんぐん歩きました。 けれども、たよりのないことは、みちのはばが五寸ぐらいになったり、また三尺ぐらいに変わったり、おまけになんだかぐるっと回っているように思われました。そして、とうとう大きなてっぺ・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・ みんなの笑い声が波のように聞えた。 まっくらな丘の間まで遁げて来たとき、ペムペルも俄かに高く泣き出した。ああいうかなしいことを、お前はきっと知らないよ。 それから二人はだまってだまってときどきしくりあげながら、ひるの象について・・・ 宮沢賢治 「黄いろのトマト」
・・・ あの笑い声は――あんまりとりとめもない声だったが――精女アノ、私はこの方が死ねと云えとおっしゃいましたので申したんでございますが――この方はそれをきいて御笑いなさったまででございます。第二の精霊 死ね? 思い切った事をお主は御云い・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・首すじの細さでその影の持主をさとった娘は何か心にひびいた事があるらしくそれよりももう一層高い笑い声をたてた。 恐ろしくすんだ声はびっくりするほど遠くひびいた。自分の笑い声の消えて行くのをジッとききながらその声をきいて身ぶるいをする男のあ・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・ちょうど主人の決心を母と妻とが言わずに知っていたように、家来も女中も知っていたので、勝手からも厩の方からも笑い声なぞは聞こえない。 母は母の部屋に、よめはよめの部屋に、弟は弟の部屋に、じっと物を思っている。主人は居間で鼾をかいて寝ている・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・それから二人で顏を見合わせて腹の底からこみ上げて来るような笑い声を出したかと思うと、一しょに立ち上がって、厨を駆け出して逃げた。逃げしなに寒山が「豊干がしゃべったな」と言ったのが聞えた。 驚いてあとを見送っている閭が周囲には、飯や菜や汁・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・ 女の子の笑い声は高くなった。灸はそのままころりと横になると女の子の足元の方へ転がった。 女の子は笑いながら手紙を書いている母親の肩を引っ張って、「アッ、アッ。」といった。 婦人は灸の方をちょっと見ると、「まア、兄さんは・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・ 長く尾をひくこの笑い声を、梶は自分もしばらく胸中にえがいてみていた。すると、しだいにあはははがげらげらに変って来て、人間の声ではもうなかった。何ものか人間の中に混じっている声だった。 自分を狂人と思うことは、なかなか人にはこれは難・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫