・・・独言を云って、誰かと話をしているようだよ…… (四辺そうそう、思った同士、人前で内証で心を通わす時は、一ツに向った卓子が、人知れず、脚を上げたり下げたりする、幽な、しかし脈を打って、血の通う、その符牒で、黙っていて、暗号が出来ると、いつ・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・と桂は女中に向かって二三品命じたが、その名は符牒のようで僕には解らなかった。しばらくすると、刺身、煮肴、煮〆、汁などが出て飯を盛った茶碗に香物。 桂はうまそうに食い初めたが、僕は何となく汚らしい気がして食う気にならなかったのをむりに食い・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・として一種の符牒のように通用しているのは、実をいうと、彼の縁談に関する件であった。卒業の少し前から話が続いているので、自分たちだけには単なる「あのこと」でいっさいの経過が明らかに頭に浮かむせいか、べつだん改まって相手の名前などは口へ出さない・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・つまり私が月給を拾五円なら拾五円取ると、拾五円方人のために尽しているという訳で取りも直さずその拾五円が私の人に対して為し得る仕事の分量を示す符丁になっています。拾五円方人に対する労力を費す、そうして拾五円現金で入ればすなわちその拾五円は己の・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・数と云うのは意識の内容に関係なく、ただその連続的関係を前後に左右にもっとも簡単に測る符牒で、こんな正体のない符牒を製造するにはよほど骨が折れたろうと思われます。 それから意識の連続のうちに、二つもしくは二つ以上、いつでも同じ順序につなが・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・五十韻は日本語を活用する文法の基にして、いろははただ言葉の符牒のみ。 この符牒をさえ心得れば、たといむつかしき文法は知らずとも、日用の便利を達するに差支えはなかるべし。文法の学問、はなはだ大切なりといえども、今日の貧民社会、まず日用を便・・・ 福沢諭吉 「小学教育の事」
・・・その事実はシベリアを通ってここまで来る間、少し主だった駅に、どの位の貨車が引きこまれ積荷の用意をし、又は白墨でいろんな符牒を書かれ出発を待って引こみ線にいたかを思い出すだけで証明される。この陸橋だってそうだ。もと、この駅にはこんなに貨物列車・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・私は米国人とその名を以て、その約束的符牒で彼等を呼ばなければなりませんけれども、其に対する心持は、地上の人類の一群に起った現象として無我に面して行きたいと存じます。人類の生活、文明史に現われる総ての事件は、その心持で接せられるべきではないの・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・ 学生時代のまんまの符牒のような挨拶を、ピンを唇で押えているので口の利けない多喜子に向ってかけ、桃子はすこしはなれたところからぐるりと尚子の立ち姿を見まわした。「いいじゃないの、なかなか」「よかったわね、やっぱりこのカラーの型に・・・ 宮本百合子 「二人いるとき」
・・・ 総ての人々は、私共も、彼等も、皆、冷静に、賢い心持の時沈思して見れば、国家と云うものは、私共の一つの生活形式である事、国名と云うものが、単に一種の符牒である事を知って居るのだ。 或る地上の部分部分に生れ、生活し、死んで行く、我も彼・・・ 宮本百合子 「無題」
出典:青空文庫