・・・それを露柴はずっと前から、家業はほとんど人任せにしたなり、自分は山谷の露路の奥に、句と書と篆刻とを楽しんでいた。だから露柴には我々にない、どこかいなせな風格があった。下町気質よりは伝法な、山の手には勿論縁の遠い、――云わば河岸の鮪の鮨と、一・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・ 明治年間池塘に居を卜した名士にして、わたくしの伝聞する所の者を挙ぐれば既に述べた福地桜痴小野湖山の他には篆刻家中井敬所と箕作秋坪との二人があるのみである。 わたくしは甚散漫ながら以上の如く明治年間の上野公園について見聞する所を述べ・・・ 永井荷風 「上野」
・・・書家には西川春洞、篆刻家には浜村大、画家には小林永濯がある。俳諧師には其角堂永機、小説家には饗庭篁村、幸田露伴、好事家には淡島寒月がある。皆一時の名士である。しかし明治四十三年八月初旬の水害以後永くその旧居に留ったものは幸田淡島其角堂の三家・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・ 父は詩をつくることと篆刻が少年時代の趣味だったそうで、楠の小引出しにいろいろと彫った臘石があったのを私も憶えている。その少年が十六のとき初めて英語の本を見て、なかの絵が出て来る迄、さかさに見ていたのが分らなかったということも聞いている・・・ 宮本百合子 「本棚」
出典:青空文庫