・・・――彼処に、路傍に咲き残った、紅梅か。いや桃だ。……近くに行ったら、花が自ら、ものを言おう。 その町の方へ、近づくと、桃である。根に軽く築いた草堤の蔭から、黒い髪が、額が、鼻が、口が、おお、赤い帯が、おなじように、揃って、二人出て、前刻・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
・・・しかし長頭丸が植通公を訪うた時、この頃何かの世間話があったかと尋ねられたのに答えて、「聚落の安芸の毛利殿の亭にて連歌の折、庭の紅梅につけて、梅の花神代もきかぬ色香かな、と紹巴法橋がいたされたのを人褒め申す」と答えたのにつけて、神代もきかぬと・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・「やっぱり梅は、紅梅よりもこんな白梅のほうがいいようですね。」「いいものだ。」すたすた行き過ぎようとなさる。私は追いかけて、「先生、花はおきらいですか。」「たいへん好きだ。」 けれども、私は看破している。先生には、みじん・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・孟宗竹のうしろは、なんだかぼんやり赤いだろう。紅梅が二本あるのだ。蕾がふくらみはじめたにちがいない。あのうすあかい霞の下に、黒い日本甍の屋根が見える。あの屋根だ。あの屋根のしたに、いまの女と、それから彼女の亭主とが寝起している。なんの奇もな・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・ここは何とかして、愚色を装い、「本日は晴天なり、れいの散歩など試みしに、紅梅、早も咲きたり、天地有情、春あやまたず再来す」 の調子で、とぼけ切らなければならぬ、とも思うのだが、私は甚だ不器用で、うまく感情を蓋い隠すことが出来ないたち・・・ 太宰治 「作家の像」
・・・母家から別れたその小さな低い鱗葺の屋根といい、竹格子の窓といい、入口の杉戸といい、殊に手を洗う縁先の水鉢、柄杓、その傍には極って葉蘭や石蕗などを下草にして、南天や紅梅の如き庭木が目隠しの柴垣を後にして立っている有様、春の朝には鶯がこの手水鉢・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・クリスマスの夜の空に明月を仰ぎ、雪の降る庭に紅梅の花を見、水仙の花の香をかぐ時には、何よりも先に宗達や光琳の筆致と色彩とを思起す。秋冬の交、深夜夢の中に疎雨斑々として窓を撲つ音を聞き、忽然目をさまして燈火の消えた部屋の中を見廻す時の心持は、・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・紫陽花が紫陽花らしいことに何の疑いもはさまれていず、紅梅が紅梅らしいのに特殊な観念化は附加されていない。それなりに評価されていて、紫陽花には珍しい色合いの花が咲けば、その現象を自然のままに見て、これはマア紫陽花に数少い色合であることよ、とい・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・私は、ホラ先動坂の家へ咲枝[自注3]が持って来てたべた虎やの赤い色のお菓子、ああいう系統の色の紅梅がすきです。ほんとにどんな梅が入ったかしら。白いにしろ紅いにしろともかく梅が入ったかしら。――どうも漠然たるものですね。 運動の時間、あな・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・そして、ギリシア神話のように、死んだ男は早ざきのつぼみを持つ紅梅に生れかわっているという幻をえがき、「心を一つにこらして」魂をその死人のもとにかよわせ、るる霊の不思議とあの世の生について語る。 川端康成は、一年前、「水晶幻想」を書いた時・・・ 宮本百合子 「文芸時評」
出典:青空文庫