・・・博士神巫が、亭主が人殺しをして、唇の色まで変って震えているものを、そんな事ぐらいで留めはしない……冬の日の暗い納戸で、糸車をじい……じい……村も浮世も寒さに喘息を病んだように響かせながら、猟夫に真裸になれ、と歯茎を緊めて厳に言った。経帷子に・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ といいながら日暮際のぱっと明い、艶のないぼやけた下なる納戸に、自分が座の、人なき薄汚れた座蒲団のあたりを見て、婆さんは後見らるる風情であったが、声を低うし、「全体あの爺は甲州街道で、小商人、煮売屋ともつかず、茶屋ともつかず、駄菓子・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・黒塚の婆の納戸で、止むを得ない。「――時に、和尚さんは、まだなかなか帰りそうに見えないね。とすると、位牌も過去帳も分らない。……」「何しろ、この荒寺だ、和尚は出がちだよって、大切な物だけは、はい、町の在家の確かな蔵に預けてあるで。」・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・耳にかけた輪数珠を外すと、木綿小紋のちゃんちゃん子、経肩衣とかいって、紋の着いた袖なしを――外は暑いがもう秋だ――もっくりと着込んで、裏納戸の濡縁に胡坐かいて、横背戸に倒れたまま真紅の花の小さくなった、鳳仙花の叢を視めながら、煙管を横銜えに・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・ と、仕切一つ、薄暗い納戸から、優しい女の声がした。「端本になりましたけれど、五六冊ございましたよ。」「おお、そうか。」「いや、いまお捜しには及びません。」 様子を察して樹島が框から声を掛けた。「は、つい。」「お・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・街道を突っ切って韮、辣薤、葱畑を、さっさっと、化けものを見届けるのじゃ、静かにということで、婆が出て来ました納戸口から入って、中土間へ忍んで、指さされるなりに、板戸の節穴から覗きますとな、――何と、六枚折の屏風の裡に、枕を並べて、と申すのが・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・と、すぐに重ね返事が、どうやら勢がなく、弱々しく聞えたと思うと、挙動は早く褄を軽く急いだが、裾をはらりと、長襦袢の艶なのが、すらすらと横歩きして、半襟も、色白な横顔も、少し俯向けるように、納戸から出て来たのが、ぱっと明るみへ立つと、肩から袖・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・今日は洗い髪の櫛巻で、節米の鼠縞の着物に、唐繻子と更紗縮緬の昼夜帯、羽織が藍納戸の薩摩筋のお召という飾し込みで、宿の女中が菎蒻島あたりと見たのも無理ではない。「馬鹿に今日は美しいんだね」と金之助はジロジロ女の身装を見やりながら、「それに・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・襖一つ隔てて直ぐその次にある納戸へも行って見た。そこはおせんが鏡に向って髪をとかした小部屋だ。彼女の長い着物や肌につけた襦袢なぞがよく掛っていたところだ。 何か残っている物でも出て来るか、こう思って、大塚さんは戸棚の中までも開けて見た。・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・そしてなんとなく不安で落ち着き得ないといったようなふうで、私のそばへ来るかと思うと縁側に出たり、また納戸の中に何物かを捜すようにさまよっては哀れな鳴き声を立てていた。 かつて経験のない私にも、このいつにない三毛の挙動の意味は明らかに直感・・・ 寺田寅彦 「子猫」
出典:青空文庫