・・・車夫は草鞋も足袋も穿かずに素足を柔かそうな土の上に踏みつけて、腰の力で車を爪先上りに引き上げる。すると左右を鎖す一面の芒の根から爽かな虫の音が聞え出した。それが幌を打つ雨の音に打ち勝つように高く自分の耳に響いた時、自分はこの果しもない虫の音・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
・・・仕方がないから顔を洗うついでをもって、冷たい縁を素足で踏みながら、箱の葢を取って鳥籠を明海へ出した。文鳥は眼をぱちつかせている。もっと早く起きたかったろうと思ったら気の毒になった。 文鳥の眼は真黒である。瞼の周囲に細い淡紅色の絹糸を縫い・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・ お梅はにわかにあわて出し、唐紙へ衝き当り障子を倒し、素足で廊下を駈け出した。 五 平田は臥床の上に立ッて帯を締めかけている。その帯の端に吉里は膝を投げかけ、平田の羽織を顔へ当てて伏し沈んでいる。平田は上を仰き眼・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・その左の方を脱いで、冷たいのも感ぜぬらしく、素足を石畳の上に載せた。それから靴の中底を引き出した。それから靴の踵に填めてある、きたない綿を引き出した。綿には何やらくるんである。それを左の手に持って、爺いさんは靴を穿いた。そして身を起した。・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・あの女神達は素足で野の花の香を踏んで行く朝風に目を覚し、野の蜜蜂と明るい熱い空気とに身の周囲を取り巻かれているのだ。自然はあれに使われて、あれが望からまた自然が湧く。疲れてもまた元に返る力の消長の中に暖かい幸福があるのだ。あれあれ、今黄金の・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・一太は素足だから、べたべた草履が踵を打つ音をさせながら歩いた。「ね、おっかちゃん、あんな家却って駄目なんだよ。女中の奴がね、いきなりいりませんて断っちまやがるよ」 一太が賢そうな声を潜めて母に教えた。そこでは、桜の葉が散っている門内・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・キュリー夫人が、夏どこかの田舎へ行っていたとき、素足で砂のところで休んでいると、そこを記者が見つけて、いろんなことを訊きはじめる。するとキュリー夫人が「科学は事に関しているのであって人に関していることでない」という意味の答をする。私にはあの・・・ 宮本百合子 「寒の梅」
・・・襪はだしもあるが、多くは素足である。女で印袢纏に三尺帯を締めて、股引を穿かずにいるものもある。口々に口説というものを歌って、「えとさっさ」と囃す。好いとさの訛であろう。石田は暫く見ていて帰った。 雛は日にまし大きくなる。初のうち油断なく・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・相手はこんな言いわけをして置いて、弦を離れた矢のように駆け出した。素足で街道のぬかるみを駆けるので、ぴちゃぴちゃ音がした。 その時ツァウォツキイは台所で使う刃物を出した。そしてフランチェンスウェヒを横切って、ウルガルン王国の官有鉄道の発・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・すると、戸口へ盲目の見馴れぬ汚い老婆がひとり素足で立っていた。彼女は手にタワシを下げてしきりに彼に頭を下げながら哀願した。「私は七十にもなりまして、連れ合いも七十で死んで了いまして、息子も一人居りましたが死んで了いました。乞食をしますと・・・ 横光利一 「街の底」
出典:青空文庫