・・・その細い山道は、経路に沿うて林の奥へ消えて行った。目的地への道標として、私が唯一のたよりにしていた汽車の軌道は、もはや何所にも見えなくなった。私は道をなくしたのだ。「迷い子!」 瞑想から醒めた時に、私の心に浮んだのは、この心細い言葉・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ シュー、と導火線はバットの火を受けると、細い煙を上げながら燃えて行った。その匂は、坑夫たちには懐しいものであった。その煙は吹雪よりも迅くて、濃かった。 各々が受持った五本又は七本の、導火線に点火し終ると、駈足で登山でもするように、二方・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・ネギの白味、豚の白味、茶碗の欠片、白墨など。細い板の上にそれらのどれかをくくりつけ、先の方に三本ほど、内側にまくれたカギバリをとりつける。そして、オモリをつけて沈めておくと、タコはその白いものに向かって近づいて来る。食べに来るわけではなく、・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・相である、春も初春でもなければ中春でもない、晩春の相である、丁度桜花が爛と咲き乱れて、稍々散り初めようという所だ、遠く霞んだ中空に、美しくおぼろおぼろとした春の月が照っている晩を、両側に桜の植えられた細い長い路を辿るような趣がある。約言すれ・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
・・・章魚や鮑が吸いついた時にそれをもいでのけようと思うても自分には手が無いなどというのは実に心細いわけである。 土葬も火葬も水葬〈も〉皆いかぬとして、それなれば今度は姥捨山見たような処へ捨てるとしてはどうであろうか。棺にも入れずに死骸許りを・・・ 正岡子規 「死後」
・・・ 道の左には地図にある通りの細い沖積地が青金の鉱山を通って来る川に沿って青くけむった稲を載せて北へ続いていた。山の上では薄明穹の頂が水色に光った。俄かに斉田が立ちどまった。道の左側が細い谷になっていてその下で誰かが屈んで何かしていた。見・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・春らしい柔かい雪が細い別荘の裏通りを埋め、母衣に触った竹の枝からトトトト雪が俥の通った後へ落ちる。陽子はさし当り入用な机、籐椅子、電球など買った。四辺が暗くなりかけに、借部屋に帰った。上り端の四畳に、夜具包が駅から着いたままころがしてある。・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 秀麿の銜えている葉巻の白い灰が、だいぶ長くなって持っていたのが、とうとう折れて、運動椅子に倚り掛かっている秀麿のチョッキの上に、細い鱗のような破片を留めて、絨緞の上に落ちて砕けた。今のように何もせずにいると、秀麿はいつも内には事業の圧・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・声がまた大きなバスで、人を見ると鼻の横を痒き痒き、細い眼でいつも又この人は笑ってばかりいたが、この叔母ほど村で好かれていた女の人もあるまいと思われた。自分の持ち物も、くれと人から云われると、何一つ惜しまなかった。子供たちを叱るにも響きわたる・・・ 横光利一 「洋灯」
・・・楽しそうに葉先をそろえた針葉と、――それに比べて地下の根は、戦い、もがき、苦しみ、精いっぱいの努力をつくしたように、枝から枝と分かれて、乱れた女の髪のごとく、地上の枝幹の総量よりも多いと思われる太い根細い根の無数をもって、一斉に大地に抱きつ・・・ 和辻哲郎 「樹の根」
出典:青空文庫