・・・博文館は既に頃日、同館とは殆三十年間交誼のある巌谷小波先生に対してさえ、版権侵害の訴訟を提起した実例がある。僕は斯くの如き貪濁なる商人と事を争う勇気がない。 僕は既に貪濁シャイロックの如き書商に銭を与えた。同時に又、翻訳の露西亜小説カラ・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・ 久しく別れた人たちに会おうとて、自分は高輪なる小波先生の文学会に赴くため始めて市中の電車に乗った。夕靄の中に暮れて行く外濠の景色を見尽して、内幸町から別の電車に乗換えた後も絶えず窓の外に眼を注いでいた。特徴のないしかも乱雑な人家つづき・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・ 古き江に漣さえ死して、風吹く事を知らぬ顔に平かである。舟は今緑り罩むる陰を離れて中流に漕ぎ出づる。櫂操るはただ一人、白き髪の白き髯の翁と見ゆ。ゆるく掻く水は、物憂げに動いて、一櫂ごとに鉛の如き光りを放つ。舟は波に浮ぶ睡蓮の睡れる中に、・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・胸の所が少し膨らんで、小さい毛が漣のように乱れて見えた。自分はこの朝、三重吉から例の件で某所まで来てくれと云う手紙を受取った。十時までにと云う依頼であるから、文鳥をそのままにしておいて出た。三重吉に逢って見ると例の件がいろいろ長くなって、い・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・それから其『月の都』を露伴に見せたら、眉山、漣の比で無いと露伴もいったとか言って、自分も非常にえらいもののようにいうものだから、其時分何も分らなかった僕も、えらいもののように思っていた。あの時分から正岡には何時もごまかされていた。発句も近来・・・ 夏目漱石 「正岡子規」
・・・この古い琴の音色には幾度か人の胸に密やかな漣が起った事であろう。この道具のどれかが己をそういう目に遇わせてくれたなら、どんなにか有難く思ったろうに。この木彫や金彫の様々な図は、瓶もあれば天使もある。羊の足の神、羽根のある獣、不思議な鳥、また・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・婦人の生活の朝夕におこる大きい波、小さい波、それは悉く相互関係をもって男子の生活の岸もうつ大波小波である現実が、理解されて来る。女はどうも髪が長くて、智慧が短いと辛辣めかして云うならば、その言葉は、社会の封建性という壁に反響して、忽ち男は智・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・この一事を、深く深く思ったとき、私たちの胸に湧く自分への激励、自分への鞭撻、自分への批判こそ一人一人の女を育て培いながら、女全体の歴史の海岸線を小波が巖を砂にして来たように変えてゆく日夜の秘められた力であると思う。〔一九四〇年六月〕・・・ 宮本百合子 「女の歴史」
名を聞いて人を知らぬと云うことが随分ある。人ばかりではない。すべての物にある。 私は子供の時から本が好だと云われた。少年の読む雑誌もなければ、巌谷小波君のお伽話もない時代に生れたので、お祖母さまがおよめ入の時に持って来・・・ 森鴎外 「サフラン」
・・・梶は、敗戦の将たちの灯火を受けた胸の流れが、漣のような忙しい白さで着席していく姿と、自分の横の芝生にいま寝そべって、半身を捻じ曲げたまま灯の中をさし覗いている栖方を見比べ、大厦の崩れんとするとき、人皆この一木に頼るばかりであろうかと、あたり・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫