さて、明治の御代もいや栄えて、あの時分はおもしろかったなどと、学校時代の事を語り合う事のできる紳士がたくさんできました。 落ち合うごとに、いろいろの話が出ます。何度となく繰り返されます。繰り返しても繰り返しても飽くを知・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・貧しい大学生などよりは、少し年はふけていても、社会的地歩を占めた紳士のほうがいいなどといった考えは実に、愚劣なものであるというようなことを抗議するのだ。日本の娘たちはあまりに現実主義になるな、浪曼的な恋愛こそ青春の花であるというようなことを・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ ラクダの外套を引っかけて、ひとかどの紳士らしくなった清三に連れられて両人が東京駅に着いたのは二月の末のある晩だった。御殿場あたりから降り出した雪は一層ひどくなっていた。清三は駅前で自動車を雇った。為吉とおしかは、生れて初めての自動車に・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・で、紳士たる以上はせめてムダ金の拾万両も棄てて、小町の真筆のあなめあなめの歌、孔子様の讃が金で書いてある顔回の瓢、耶蘇の血が染みている十字架の切れ端などというものを買込んで、どんなものだいと反身になるのもマンザラ悪くはあるまいかも知らぬ。・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・むるのてあいは二言目には女で食うといえど女で食うは禽語楼のいわゆる実母散と清婦湯他は一度女に食われて後のことなり俊雄は冬吉の家へ転げ込み白昼そこに大手を振ってひりりとする朝湯に起きるからすぐの味を占め紳士と言わるる父の名もあるべき者が三筋に・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 性質はまじめな、たいへん厳格で律儀なものをさえ、どこかに隠し持っていましたが、それでも趣味として、むかしフランスに流行したとかいう粋紳士風、または鬼面毒笑風を信奉している様子らしく、むやみやたらに人を軽蔑し、孤高を装って居りました。長・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・電車は紳士やら軍人やら商人やら学生やらを多く載せて、そして飛竜のごとく駛り出した。 トンネルを出て、電車の速力がやや緩くなったころから、かれはしきりに首を停車場の待合所の方に注いでいたが、ふと見馴れたリボンの色を見得たとみえて、その顔は・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ つい近ごろある映画の試写会に出席したら、すぐ前の席にやはり十歳ぐらいの男の子を連れた老紳士がいた。その子供がおそらく生まれてはじめて映画というものを見たのではないかと想像されたのは、映画中なんべんとなく「はあー、いろんなことがあるんだ・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・それはハワイの写真で、汽船が沢山ならんでいる海の景色や、白い洋服を着てヘルメット帽をかぶった紳士やがあった。その紳士は林のお父さんで、紳士のたっているうしろの西洋建物の、英語の看板のかかった商店が、林の生れたハワイの家だということであった。・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・家は軽快なる二階づくりで其の門墻も亦極めていかめしからざるところ、われわれの目には富商の隠宅か或は旗亭かとも思われた位で、今日の紳士が好んで築造する邸宅とは全く趣を異にしたものであった。 茅町の岸は本郷向ヶ岡の丘阜を背にし東に面して不忍・・・ 永井荷風 「上野」
出典:青空文庫