・・・が顔を見る、余ここにおいてか少々尻こそばゆき状態に陥るのやむをえざるに至れり、さりながら妙齢なる美人より申し込まれたるこの果し状を真平御免蒙ると握りつぶす訳には行かない、いやしくも文明の教育を受けたる紳士が婦人に対する尊敬を失しては生涯の不・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・俺は強かったんだ。だが弱かったんだ。ヘン、どっちだっていいや。兎に角俺は成功しないぜ。鼻の先にブラ下った餌を食わないようじゃな。俺は紳士じゃないじゃないか。紳士だってやるのに俺が遠慮するって法はねえぜ。待て、だが俺は遠慮深いので紳士になれね・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・凡そ男女交際の清濁は其気品の如何に関することにして、例えば支那主義の眼を以て見れば、西洋諸国の貴女紳士が共に談じ共に笑い、同所に浴こそせざれ同席同食、物を授受するに手より手にするのみか、其手を握るを以て礼とするが如き、男女別なし、無礼の野民・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・それは第一に、平生紳士らしい行動をしようと思っていて、近ごろの人が貴夫人に対して、わざとらしいように無作法をするのに、心から憤っていたからである。第二にはジネストの奥さんの手紙が表面には法律上と処世上との顧問を自分に託するようであって、その・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・それが忽ち変って高帽の紳士となった。もっとも帽の上部は見えて居らぬ。首から下も見えぬけれど何だか二重廻しを著て居るように思われた。その顔が三たび変った。今度は八つか九つ位の女の子の顔で眼は全く下向いて居る。額際の髪にはゴムの長い櫛をはめて髪・・・ 正岡子規 「ランプの影」
・・・みんなは山男があんまり紳士風で立派なのですっかり愕ろいてしまいました。ただひとりその中に町はずれの本屋の主人が居ましたが山男の無暗にしか爪らしいのを見て思わずにやりとしました。それは昨日の夕方顔のまっかな蓑を着た大きな男が来て「知って置くべ・・・ 宮沢賢治 「紫紺染について」
・・・列車がプラットフォームへ止るや否や、Y、日本紳士をヘキエキさして「キム」に関係があるかもしれぬという名誉の猜疑心を誘発させたところの鞣外套をひっかけてとび出してしまった。 後から、駅の待合室へ行って見たが、そんな名物の売店なし。又電燈で・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・見たと云う、ステレオチイプな笑顔の女芸人が種々の楽器を奏する国際的団体の事や、マルセイユで始て西洋の町を散歩して、嘘と云うものを衝かぬ店で、掛値と云うもののない品物を買って、それを持って帰ろうとして、紳士がそんな物をぶら下げてお歩きにならな・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ 田舎紳士は宿場へ着いた。彼は四十三になる。四十三年貧困と戦い続けた効あって、昨夜漸く春蚕の仲買で八百円を手に入れた。今彼の胸は未来の画策のために詰っている。けれども、昨夜銭湯へ行ったとき、八百円の札束を鞄に入れて、洗い場まで持って這入・・・ 横光利一 「蠅」
・・・ 木曜会で接した漱石は、良識に富んだ、穏やかな、円熟した紳士であった。癇癪を起こしたり、気ちがいじみたことをするようなところは、全然見えなかった。諧謔で相手の言い草をひっくり返すというような機鋒はなかなか鋭かったが、しかし相手の痛い・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫