・・・――いや、終列車にはきっと帰るから。――間違わないように。さようなら。」 受話器を置いた陳彩は、まるで放心したように、しばらくは黙然と坐っていた。が、やがて置き時計の針を見ると、半ば機械的にベルの鈕を押した。 書記の今西はその響に応・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・周章てて急坂を駈下りて転がるように停車場に飛込みざま切符を買った処へ、終列車が地響き打って突進して来た。ブリッジを渡る暇もないのでレールを踏越えて、漸とこさと乗込んでから顔を出すと、跡から追駈けて来た二葉亭は柵の外に立って、例の錆のある太い・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・それを朝から来ていて、終列車の出る頃まで、赤い帽子をかぶつた駅員が何度追ツ払おうが、又すぐしがみついてくる「浮浪者」の群れがある。雪が足駄の歯の下で、ギユンギユンなり、硝子が花模様に凍てつき、鉄物が指に吸いつくとき、彼等は真黒になつたメリヤ・・・ 小林多喜二 「北海道の「俊寛」」
・・・木曜日の晩に漱石山房で話にふけっていれば、終列車に乗り遅れるおそれがあった。それで木曜会に出る度数は減ったが、訪ねて行くときは、午後早く行って夕方に辞去するようにした。そのころ、門の前まで行くと、必ず人力車が一台待っていた。客間には滝田樗陰・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫