・・・ただ彼の知っているのは月々の給金を貰う時に、この人の手を経ると云うことだけだった。もう一人は全然知らなかった。二人は麦酒の代りをする度に、「こら」とか「おい」とか云う言葉を使った。女中はそれでも厭な顔をせずに、両手にコップを持ちながら、まめ・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・とを心すともなく直視めながら、一歩進み二歩行く内、にわかに颯と暗くなって、風が身に染むので心着けば、樹蔭なる崖の腹から二頭の竜の、二条の氷柱を吐く末が百筋に乱れて、どッと池へ灌ぐのは、熊野の野社の千歳経る杉の林を頂いた、十二社の滝の下路であ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・むかしのもの語にも、年月の経る間には、おなじ背戸に、孫も彦も群るはずだし、第一椋鳥と塒を賭けて戦う時の、雀の軍勢を思いたい。よしそれは別として、長年の間には、もう些と家族が栄えようと思うのに、十年一日と言うが、実際、――その土手三番町を、や・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ 一事件を経る度に二人が胸中に湧いた恋の卵は層を増してくる。機に触れて交換する双方の意志は、直に互いの胸中にある例の卵に至大な養分を給与する。今日の日暮はたしかにその機であった。ぞっと身振いをするほど、著しき徴候を現したのである。しかし・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・しかしてこれを取り来りてノルウェー産の樅のあいだに植えましたときに、奇なるかな、両種の樅は相いならんで生長し、年を経るも枯れなかったのであります。ここにおいて大問題は釈けました。ユトランドの荒野に始めて緑の野を見ることができました。緑は希望・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・最初、彼は、堪えられなかったものだが、日を経るうちに、馴れてきて、さほどに感じなくなった。それに従って、彼の身体には、知らず知らず醤油の臭いがしみこんできているのだった。「あ、臭い! われが戻ると醤油臭い。」 たまに、家へ帰ると祖母・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・利休の指点したものは、それが塊然たる一陶器であっても一度その指点を経るや金玉ただならざる物となったのである。勿論利休を幇けて当時の趣味の世界を進歩させた諸星の働きもあったには相違ないが、一代の宗匠として利休は恐ろしき威力を有して、諸星を引率・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・いったいあの動物は、からだが扁平で、そうして年を経ると共に、頭が異様に大きくなります。そうして口が大きくなって、いまの若い人たちなどがグロテスクとか何とかいって敬遠したがる種類の風貌を呈してまいりますので、昔の人がこれを、ただものでないとし・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・年月を経るにしたがい、つるに就いての記憶も薄れて、私が高等学校にはいったとし、夏休みに帰郷して、つるが死んだことを家のひとたちから聞かされたけれど、別段、泣きもしなかった。つるの亭主は、甲州の甲斐絹問屋の番頭で、いちど妻に死なれ、子供もなか・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・ すべての歌人の取材の範囲やそれに対する観照の態度は、誰でも年を追って自然の変遷を経るもののように見える。しかしそういうものがどんなに変っても、同じ作者の「顔」は存外変らぬもののように思われる。歌を専門的に研究している人達の分析的な細か・・・ 寺田寅彦 「宇都野さんの歌」
出典:青空文庫